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平成12年度公開展示会図録
連歌の世界へ
長谷川 千尋
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日本の詩の歴史の中で、古代以来の和歌から派生し、やがて近世の俳諧の産みの親となったのが、連歌です。連歌は中世のある時期には和歌を凌ぐ勢いで流行し、貴賤都鄙を問わず人々を夢中にさせました。狂言『箕被(みかづき)』には、連歌に熱中するあまり妻に家を出て行かれそうになる主人公が登場し、御伽草子『猿の草子』には、猿たちが連歌を興行して聟をもてなす有様が描かれています。その他『醒睡笑(せいすいしょう)』など近世の笑話の類には、しばしば連歌師が活躍します。しかし、残念ながら現代の私たちにとっては、連歌は馴染みの薄い文芸になってしまっているようです。
五・七・五(長句)に、ある人が七・七(短句)を付け、さらにある人が五・七・五を付ける。但し和歌とは異なり、連歌ではその一句一句が独立した内容を持たなければなりません。長句、短句と交互に付け進め、百句まで連ねるのが、連歌の基本のかたちである百韻(ひゃくいん)です。これを複数の人が寄り集まってするので、連歌は「座の文芸」と言われます。即興性という点では、しりとりゲームに近いものがあります。その場で創作し、鑑賞しながら再び創作へ。それを繰り返しながら共同で制作する、世界でも類例の少ない文学形態です。ところが、一旦完成し、書き記された作品に接しても、その場の興奮や感興といった連歌の醍醐味を追体験するのは難しいことです。このことが、連歌に対して馴染みにくさを感じる大きな原因となっているのでしょう。
そこで、実際の会席で、連歌がどのように進行していったのかを、簡単に追っていきたいと思います。
複数の人がゲームをする場合、それぞれが好き勝手にふるまうと、却ってゲームのおもしろさは損なわれてしまいます。そこには、ルールが必要です。連歌のルールを式目(しきもく)といいます。そして、全体を統括するのは、宗匠の役目です。宗匠の監督のもとに、出された句を読み上げ、式目に適っているかどうかを確かめ、これを懐紙に書き留めるのが、執筆(しゅひつ)です。連歌の会席では、床の間に連歌の神である天神の画像もしくは名号を掛け、これを背にし、文台を前にして執筆が、その横に宗匠が着座することになっています。長谷寺蔵「天神祭礼絵」などの絵画によって、その様子を窺うことができます。
百韻の場合、懐紙は二つ折りにしたもの四枚を用い、初折(しょおり)の表に八句、裏に一四句、二折(にのおり)・三折(さんのおり)にはそれぞれ表に一四句、裏に一四句、名残折(なごりのおり)の表に一四句、裏に八句を記します。初折のはじめには、張行(ちょうぎょう)年月日、場所、賦物(ふしもの)を書き添えます。賦物は、もとは各句に詠み込むものでしたが、発句にのみ形式的に残り、「賦何人(ふすなにびと)連歌」「賦山何(ふすやまなに)連歌」などというのが、その百韻の呼び名のようになりました。例えば、著名な水無瀬三吟百韻の賦物は「何人」ですが、これは発句の「雪ながら山もとかすむ夕かな」から「山」の字を取って、「何」のところに当てはめると、「山人」の熟語が成り立つ、というわけです。
発句(ほっく)はその会の主賓が、脇句(わきく)(第二句め)は会を催した亭主が、第三(だいさん)は宗匠が詠み、以下連衆が順に詠み、一回りすると、あとは早いものがちで付けていきます。といっても、式目に抵触するものなどふさわしくない句は、宗匠によって返されてしまいます。一番最後の句である挙句(あげく)までいくと、懐紙の余った部分に句上(くあげ)と称して、一座に加わった連衆の名前と出句数を記します。句数を見れば、その人の力量や立場がわかります。
連歌を付け進んでいく際に最も注意しなければならないのは、輪廻(りんね)です。前句に付けて打越(うちこし)(前々句)から離れるのが大原則で、前句を挟んで打越と付句が同意同想に陥ることを輪廻といって嫌いました。連歌は何よりも変化を尊ぶ文芸で、水の流れのように、進むことはあっても退くことはありません。式目も、この変化を保つために綿密に計算されたものです。大まかに言えば、連続して何句続けてよいかという句数(くかず)のルール、反復して使用するには何句隔てなければならないかという句去(くさり)のルールから成り立っています。この句数と句去の原則の協調によって、四季、夜分、光物(ひかりもの)、聳物(そびきもの)、降物(ふりもの)、山類(さんるい)、水辺(すいへん)、動物(うごきもの)、植物(うえもの)、人倫、居所(きょしょ)、衣装、旅、名所、恋、述懐(しゅっかい)、神祇(じんぎ)、釈教(しゃっきょう) の様々な素材が偏りなく現れるわけです。このような連歌の特徴を二条良基は、次のように表現しています。
連歌は前念後念をつがず。又盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや。………さのみ執着執心なき事なるうへ、一座に更に余念なければ、悪念もおのづから盛りに侍るべき事なし。『筑波問答』
後半の部分で、良基も言及しているように、連歌は何らかの功徳のある文芸と見なされ、十徳、二十五徳などともてはやされました。連歌は中世の詩ですから、当時の宗教的な観念や実利主義とも無縁ではありません。例えば、神仏に手向けて楽しませる法楽、さらには、安産・新宅造営・戦勝・旅中安全・病気平癒などの祈祷、故人の追善など生活の様々な場面で折に触れて張行され、人々はその効能を信じていたのです。
さて、今回の展示では、古事記、万葉集に遡る連歌の起源から、中世の全盛期を経て、近世の俳諧の胎動に至る連歌の歴史を概観してみました。連歌に関する資料には、いくつかの種類があります。今回お見せするのは、百韻の原懐紙の趣きを留める巻子本、百韻を十巻連ねた千句、そうした当座の付合(つけあい)(前句と付句の二句一連)から優れたものを選りすぐった句集、また、連歌の理想的なあり方や稽古の仕方などを解き明かした連歌論書、必要な知識を集成した学書や辞書などです。ここに繰り広げられる連歌の世界の中心となる人物は、宗祇です。宗祇は、応永二八年(一四二一)に生まれ、連歌を和歌に匹敵する高度な文学に成長させた人です。文亀二年(一五○二)、八十二歳で箱根湯本にて客死しますが、その終焉の間際、弟子たちの前で「ながむる月に立ちぞうかるる」という句を口ずさみ、自分はこの前句に付けあぐねているが、お前たちはどうか、と語りかけ、やがて息を引き取ったと伝えられています。
宗祇没後五○○年となる二○○二年を間近に控え、この機会に宗祇園事跡を振り返っていただくことができれば幸いです。(京都大学大学院文学研究科国語学国文学専修)
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