第1章 沿革


第2節 第2期(明治41年〜昭和10年)


1 島館長から石川館長へ

 明治41年(1908)は本館の歴史にとって,大きな意味を持つ年である。その第1は官制の改正により,本館に司書官および司書が置かれるようになったこと,第2は「附属図書館商議会規程」が制定されたことである。
 この年6月2日,勅令をもって本学官制が改正され,司書官および司書が新設された。勅令の関係条文はつぎの通りである。

  第1条 京都帝国大学ニ職員ヲ置ク 左ノ如シ
    総  長
    書記官
    事務官
    学生監
    司書官
    書  記
    司  書
  第4条
    (第3項)司書官ハ専任1人奏任トス 上官ノ命ヲ承ケ附属図書館ニ於ケル図書記録及閲覧ニ関スル事務ニ従事ス
  第5条
    (第3項)司書ハ専任5人判任トス 上官ノ命ヲ承ケ附属図書館ニ於ケル図書記録ノ整理及閲覧ニ関スル事務ニ従事ス

 かくてわが国の大学図書館は,はじめて図書館業務のための専門的職種を持つことができたのである。
 同じくこの年12月1日付達示第19号をもって,京都帝国大学附属図書館商議会が設置された。司書官・司書の職制が新設され,いままた附属図書館運
営の審議機関として商議会が設置され,大学図書館としての運営機構はここに完備した。商議会は図書館のことに関して,総長の諮詢に応じるとともに,図書館長および商議会委員の提議する事項を審議する。商議会は委員長と委員からなり,委員長は委員の互選によって選出される。委員は各分科大学長と,各分科大学の教授1名から構成されていた。そして戦後商議会規程の改正されるまで,図書館長および司書官は委員に列せず,商議会委員の質疑に答え,問題のある時は提議するという立場であった。商議会開設当時の規程は次の通りである。

京都帝国大学附属図書館商議会規程
  第1条 京都帝国大学ニ図書館商議会ヲ設ク
    商議会ハ各分科大学長及各分科大学教授各1名ヲ以テ組織ス
  第2条 教授ニシテ委員タル者ハ当該各分科大学教授ノ互選ニヨリ総長之ヲ命ス
    委員長ハ委員ニ於テ之ヲ互選ス
    委員長ハ商議会ヲ召集シ其議長ト為ル
    委員長事故アル時ハ年長者之ヲ代理ス
  第3条 商議会ニ書記1人ヲ置ク 委員長ノ指揮ヲ受ケ庶務ニ従事ス
    書記ハ本学司書ヲ以テ之ニ充ツ
  第4条 委員ノ任期ハ3ケ年トス 但シ引続キ再選セラルル事ヲ得ス
    委員長及委員補欠ノ場合ニ於ケル任期ハ前任者ノ任期ニ依ル
  第5条 商議会ハ左ノ事項ヲ審議ス
    1 図書館ニ関シ総長ヨリ諮詢ノ件
    1 図書館長ヨリ提議ノ件
    1 図書館ニ関シ委員ヨリ提議ノ件
  第6条 図書館長ハ商議会ニ列席ス 又委員長ハ必要アリト認ムル場合ニ於テ其他ノ本学職員ニ列席ヲ要求スルコトヲ得
    但シ此等ノ列席者ハ議決ノ数ニ加ハル事ヲ得ス
  第7条 本規程ハ明治41年12月1日ヨリ之ヲ施行ス

初代委員は
  委員長 久原 躬弦  理工科大学長
  委  員 田辺 朔郎 理工科大学教授
 
井上 密 法科大学長
 
毛戸 勝元 法科大学教授
 
荒木寅三郎 医科大学長
 
伊藤 隼三 医科大学教授
 
松本文三郎 文科大学長
 
内田 銀蔵 文科大学教授

 明治42年(1909)2月17日第1回の商議会が開催された。この最初の商議会で審議された重要な問題は,図書館長より提議された「本学図書(各分科ヲ通シ)印刷目録(Author Catalogue)調製希望ノ件」であった。この問題は熟考を要するゆえ,可決を保留するとの意見多数で,決定をみなかったが,全学に共通して使用できる印刷目録を作製しようという問題であっただけに,注目されていい。
 第2回商議会はひきつづき同年6月17日に開催され,明治43年度図書館予算要求概算書案について,各費目を詳細に審議した。この会議において,島館長の案であった増加図書の月報を印刷する印刷費増額が提出されたが,「図書館ニハ本学全体ノ図書目録ノ印刷サレタルモノナシ之ニ先立テ増加図書ノミノ月報ヲ印刷シテ配付スルモ根本的ノ目録ナキヲ以テ格別ノ利益ナシ」として否決された。
 明治43年(1910)7月25日,島文次郎は第三高等学校教授に転じて館長を免ぜられ,石川一事務官が司書官に任ぜられると共に館長に補せられた。本館において,教官系以外より図書館長に補せられたのは,この石川一館長のみである。明治41年の官制改正により,館長は「教授助教授又ハ司書官ヨリ文部大臣之ヲ補ス」となっていたので,石川一は司書官に任ぜられることによって,館長に補せられたのである。
 島館長は初代館長として,本館の創設以来その発展のために尽力したが,一方文科大学の開設に備え,文科系図書の収集にもつとめ,着々とその成果を挙げ,また関西文庫協会を創設する等,館界一般につくし,その功績も非常に大であった。それで同館長の辞任に際し,日本図書館協会発行の「図書館雑誌」第10号は,島京都帝国大学附属図書館長の転職として,次の通り報じている。
 京都帝国大学附属図書館創立の際より館長の職を挙じて熱心同館の経営に任じ常に其改良発展を計りて遂に今日の盛大を致されし文学士島文次郎君は去る8月同学司書官より文科大学助教授に転任,同時に図書館長の職を去られたり。我儕は同君転職の事由の如何なるものあるかを知らずと雖も,ただ我儕同業の立場より観て君の如き有力多労の士の我が図書館界を去られたるを惜まざる能はず。君頭脳明[晢]学殖富贍之に加ふるに斯業十又三年の経験を以てす。我が界其人に乏しきを訴ふるに当りて端無く君の退引を見る。真に遺憾限り無しと謂ふべし。君が新に入られたる英文学界は君を歓迎すること勿論なりと雖も,我儕の失望は此によりて慰むべくもあらず。只寄語一事のあるあり,曰く君今職を転ぜりと雖も,願はくは我が図書館に忠実なること昔日の如くなれと。
 石川館長は就任後間もなく,43年10月20日第5回商議会を開催した。この会議においては,(1)図書館規則改正の件,(2)図書月報分類制定の件という2つの案件を審議した。規則改正は,官制の改正により,「事務官」「薬局長」「学生監」「技師」等の文字が新たにつけ加ったことと,「貴重図書ハ其学科ニ関スル教官ノ外総長ノ特許ヲ得タルモノニ限リ之ヲ閲覧スルコトヲ得」とあったのを,「館長ノ承認ヲ経テ」と改正されたことである。
 この商議会の結果,11月14日付で正式に本館規則ならびに同執行手続が改正され,さらに11月15日よりは「京都帝国大学増加図書月報」が発行されはじめた。
 一方カリフオルニア大学との図書交換もはじめられ,また閲覧室の一部に自由接架制による図書の展列を行うなど,内外にわたり図書館活動は充実されていった。
 明治44年(1911)6月7日,第6回商議会を開催。今回も前回と同様,規則改正に関し審議を行った。こんどの改正は相当広範囲にわたり,改正条文は図書館規則について10カ条,執行手続について5カ条であった。これらの改正は官制の改正等の結果によるもので,明治43年12月22日九州帝国大学の設置が決定されたのにともない,さきに本館規則第1条に,福岡医科大学に所属する図書について追加された分が,今回あらためて削除された。
 この会議には菊池総長も臨席したが,総長が商議会に参加したのは,これが最初である。しかも興味深いのは,総長の発言によって,改正案も,もとの条文も共に削除された条文が一つあることであろう。当時の記録をみると,執行手続の第32条は,改正原案は「凡ソ本学ニ図書又ハ図書購入費ヲ寄贈セント欲スル者アルトキハ本学ハ其需ニ応スルコトアルヘシ」とあったのを,このような規程は大学全体の規程の中に入れるべきものであるということで,削除された。商議会でのこの審議の結果にもとづき,9月8日正式に規則および執行手続が改正された。
 この年7月以降,米国議院図書館カード型印刷目録の既刊の分と今後刊行の分を,あわせ送附されることになった。それは,明治42年12月,時の総長菊池大麓が日米交換教授としてアメリカ滞在中,講演の余暇に議院図書館(Library of Congress)を視察したとき,同館で発行しているカード型印刷目録が学術研究上,また図書館経営上裨益するところ多いことを知り,しかもその刊行後10年近く経過しているのにもかかわらず,わが国には1カ所もこれを備える館のないのを遺憾とし,同館長パトナム(Putnam)氏と相談し,同カードを日本にも配布を受くるよう手筈を定めて帰朝した。しかし東京帝国大学と帝国図書館とは,同カードの配布を,都合によりともに辞退したので,まず本学のみ配布を受けることになり,文部省に禀請して外務省を通じ,議院図書館およびスミソニアン・インスチチユーション国際図書交換局と交渉の結果,やっと送付されることになったものである。
 同年10月1日石川一は館長を免ぜられ,新村出が第3代館長に任命された。石川館長は在職1年2カ月余で,歴代館長のうち在職期間はもっとも短かかったが,よく初代館長創業のあとを受け,守成の任を全うした。


2 新 村 館 長 時 代

 新村館長は昭和11年定年退官するまで,明治・大正・昭和の3代にわたり,在職すること実に26年の久しきにわたり,本館の充実期を作りあげた。

第3代館長 新村出
 当時文科大学教授であった新村出の館長就任は,本館史上大きな意味をもつ。まず第1に教授にして図書館長の補職についたのは,各帝国大学を通じて,新村館長をもって嚆矢とすることである。新村館長就任当時,東京帝国大学は初代館長和田万吉助教授がまだ在任中であった。東大で教授にして館長に補せられたのは,和田館長についで大正12年11月29日就任した姉崎正治教授が最初であった。
 新村館長の館長就任により,これまでのように助教授または司書官が館長に補せられたのにくらべ,館長の地位が従来より高く評価されうるようになった。しかし新村教授の館長就任に際しては,文科大学の同僚教授のうちには,館長の職はこれまで助教授または司書官で補せられた職であるから,教授である者の就くべき職でないと言う者もあったそうである。
 このように,教授が館長に補せられることによって,館長の地位は高められたが,それとともに,従来のような専任館長を得ることが困難になった。初代島館長ははじめ法科大学助教授に任ぜられて館長に補せられたが,法科大学助教授というのは,ただ身分上のことだけであって,べつに法科大学で教育・研究にたずさわるということはなかった。明治39年8月には,文科大学助教授に任ぜられたが,これも身分上のことだけであった。すなわち身分上は分科大学の助教授であるが,館長の職務に専念する専任館長であったわけである。このような専任館長的在り方が,新村館長以後見られなくなった。しかし新村館長は文科大学教授として,研究,教育に従うかたわら,ほとんど専任館長的に,長期にわたって本館の発展に尽力した。
 新村館長以後,館長の学内における地位は高められたが,それでも他の長にくらべるとき,たとえば帝国大学高等官官等俸給令によれば,一段低く見られていたと言えるであろう。すなわち明治30年6月の官等俸給令によれば,教授にして分科大学長や医院長に補せられる者には,本俸500円以内の加給をしうるのに対して,教授助教授にして図書館長に補せられる者には,本俸400円以内を加給しうるとされていた。ついで明治31年7月,帝国大学高等官官等俸給令は改正され,分科大学長・医院長等に対しては,本俸600円以内加給しうるように引き上げられたが,図書館長の加給は400円のまま据え置かれた。
 しかしいずれにしても新村館長の就任は,本館の発展に大きな意味をもつものであった。とくに新村館長は言語学者として,東西の文献に広い見識を持ち,本館の誇るべき特殊文庫の大半は,新村館長時代に収集されたのであり,本館蔵書の基盤が確立されたのである。
 時代はいよいよ明治から大正に移る。この間,明治19年に「帝国大学令」が制定されたとき,ただ一つの帝国大学であったのが,30年の本学の創設をはじめ,明治40年には東北帝国大学,同43年には九州帝国大学と,4つの帝国大学が設置され,大学の発展は数においても,またその内容においても著しかった。しかし大正に入るとともに,大学自治,学問の自由独立の問題をめぐって,大正2年本学に沢柳事件が起り,さらに大正中期からは学生運動も抬頭し,大学もようやく騒然たる時代の嵐の前に立たされてくるのである。
 明治から大正に移るとともに,本館も逐次その内容の充実が進められていった。まず第一に挙げるべきは,大正元年(1912)9月,これまで総長の許可を得ることとなっていた下記事項が,「京都帝国大学附属図書館長委任事項」として,館長に委任されたことであろう。その委任事項とは

  1 諸官庁又ハ公共団体ニ対シテ図書ヲ貸付スル件
  1 諸官庁ノ吏員又ハ公共団体ノ代表者ニ対シ公用図書の検索若クハ閲覧ヲ許可スル件
  1 図書館閲覧許可証交付ノ件
  1 図書特別閲覧票交付ノ件(但シ1ケ年以内有効ノモノニ限ル)
  1 図書検索許可証交付ノ件
  1 夏期休業中図書貸付許可ノ件
  1 2日以上貴重図書貸付許可ノ件
  1 貴重図書閲覧許可ノ件

の8件であった。これは館長の権限の独立,強化をしめすものと解することができるであろう。
 大正2年(1913)9月12日第9回商議会が開催された。予定されていた議題は大正3年度の予算案審議であったが,臨席の沢柳総長は,同総長のかねてよりの腹案であった図書統一問題について審議するよう要求され,この問題の方が主たる議題となった。沢柳総長の図書統一計画とは,各教室には研究上どうしても欠くべからざる書物以外は置かないことを前提として,すべての図書をなるべく中央館に集中し,当時存在した法科大学および文科大学の各図書取扱規程等も統一しようというものであった。しかし法科大学の如く,すでに印刷目録までできている所もあるので,絶対的に統一しようとするのではなくて,むしろ事務上,あるいは目録の作製上での統一を行いたいという説明が付された。ちようどこの頃,本学全体の図書の総合目録を出版しようという案が生れており,そのためにも一応図書事務の統一が必要であり,時期としてもちようど良いと考えたのであろう。委員の中から,「もし統一して本館で目録編纂までするとすれば,事務員の増員,引いては経費の増加を招くのではないか」という意見も出たが,総長は「もし事務を統一すれば,むしろ経費は節減される見込だ」と述べている。このような総長の意見に対して,委員の中には,「別段,今日までのやり方に不満を持ってもいないのに,統一を強行されては困る」と反対する者も多少あり,また各分科大学ごとに異った図書取扱規程があるのはおかしいという意見や,それぞれの分科大学の図書の特殊性を考えた上での規程だから,従来のままでいいという意見が出て,結論は出なかった。当時問題となった点が数十年後の今日でも,図書館行政上の問題となっていることと考えあわせるとき,たいへん興味深い。
 大正4年(1915)1月6日,奈良女子高等師範学校教授長寿吉が司書官に任ぜられた。明治41年司書官制度が設けられるや,島文次郎が司書官に任ぜられて図書館長に補せられ,ついで石川一が司書官に任ぜられ館長の職にあった。しかし明治44年10月1日石川一がその職を去ってより,司書官は空席のままになっていたのである。
 同年7月2日第10回商議会を開催した。議題は大正5年度図書館予算案,本館事務室庁舎の増築,移築の件と,昨年来の総括印刷目録の予算問題であった。事務室庁舎に関して新村館長は「本館事務室ハ去ル明治四十三年以来前々館長島氏ノ時代ヨリ屡々要求セラレシガ,時機至ラス今日ニ及ヒタルハ頗ル遺憾ナリシ。ソモソモ本館ノ建物ハ当初ノ規模甚タ狭小ニシテ,諸君モ御承知ノ如ク,現時教官閲覧室ニ充テアル僅カニ十二坪余ナル一室ニテ事務ヲ処理シツツアリシガ,其後本館ノ事務モ段々膨張シ支障少カラズ。依テ法科大学図書室ノ二室ヲ借受ケテ漸ク事務ヲ執リ居リシガ,尚狭隘トナリ止ヲ得ス姑息的ニモ増築シ,目下御覧ノ通リノ次第ナリ。然ルニ法科図書室ニ於テモ昨今益々狭隘ヲ感シ,二室ノ返却を要求セラレツツアルノ現状ナリ。故ニ来年度ニ於テハ是非共本費ヲ要求シテ,焦眉ノ急ニ応セントスルノ希望ナリ。而シテ本館ハ各分科大学ヨリ購入又ハ寄贈ノ図書ヲ回付シ来リ整理スルノ慣例ニシテ,本図書中ニハ随分貴重又ハ再ヒ得難キモノモアリ。之ヲ整理シテ再ヒ各科教室ニ貸付シ又ハ書庫ニ収ムル迄ニハ,少クモ四五日間ノ日子ヲ要シ,此ノ間ニ於テ一朝災禍ニ遭遇センカ,之等ノ図書ノミナラス,本館ニテハ入館ノ図書ニ対シテハ,一々其来歴等ヲ詳シク記入シタルカード式ノ目録アリ,絶ヘス検索,編纂上等ニ備付置クノ必要アリ。之等ノ必要欠クヘカラサル大切ナルモノモ,烏有ニ帰スルノ虞レアリ。故ニ本館ノ建築ハ可成不燃質ノ建物トナシタキ希望ナリ」と説明した。また総括印刷目録については,「………当初ハ分類目録トナシ印行スルノ筈ナリシガ,編纂スヘキ図書ノ大部分ハ各教室ニ在リテ,分類上困難ノ場合アリテ意ノ如クナラス。且普通図書館的ノ雑駁ナル分類トナスモ,時日ト労力トヲ徒費スルノミニテ,専門的ノ分類ニアラサレハ利用上ニ於テモ効果少カルヘシト信シ,東京大学ナゾニテモ順序トシテ,洋書ハ著者名目録,和漢書ハ書名目録ト云フ編纂ノ順序ニ鑑ミ,本館ニ於テモ速成ヲ重ンジ,先ツ洋書ハ著者名目録トナシ,次ニ和漢書書名目録ノ編纂ニ従事シタキ考ナリ」と説明した。
 館舎の建築に関する委員の意見の一つに「二階建ハ総テノ点ニ於テ不便多カルヘシト思惟ス。殊ニ教官閲覧室ノ階上ニアルハ,書庫ニ遠ク不便ナルヘシ。其他事務室カ階下ニ有リテ館長室ノ階上ニアルカ如キ等ハ支障多カルヘシ。尚本設計ハ敢テ大ナリト云フニ非ルモ,可成平家建トナシ,室数等ヲ節約シ,可成小ナル経費ニテ提出セシ方通過ノ点ニ於テ利益ナルヘシ」というものもあった。
 印刷目録についても委員の意見は「今回印刷セントスル洋書ノ目録ハ,先ツ以テ著者名索引目録ト為スノ御説ナルモ,著者名ノミノ索引目録ニテハ利用上効果少ナシ。分類目録ノ編成ヲ主張ス。而シテ図書館ニテ分類スルニ困難ナレハ,各分科ニテ医科ハ医科トシ,理科ハ理科トシ,各教室ニ於テ分類ヲ担当シ,之ヲ図書館ニテ綜合シテ編纂セハ容易ナルヘシト信ス」,「著者名目録ノミナレハ,先ツ無キヨリ優レル位ノ所ナリ。将来ハ分類目録編纂ノ要アルヘシト信ス」。「向後ノ為メ分類目録編成ノ標準トシテ,分類細目表ヲ各分科ニテ調製シテハ如何」という風に図書館の将来について真剣に論議がかわされた。この日の記録には「シキリニ論争アリ,議場稍ヤ囂々タリ」とある。結局新村館長の事務室新築案は認められず,目録の方も,分類細目等を決定するため,別に委員会を開くということになって,その他の予算案を承認するにとどまった。
 第11回商議会は大正5年6月5日開催,やはり翌年度図書館予算案に関する議題であった。ところが,この時の会議で,従来会議の主たる議題とされてきた翌年度図書館予算案の審議を,以後やめようという意見が出て承認された。ただし新事業の企画等に関し,委員会に附する方が良いと認められる重要な事項については,従来の如く具体案を提出しようということになった。この決定は商議会の運営に比較的大きな影響を与えた点で,注目しなければならない。この決定によって従来の中心議題であったものを失うのであるから,当然商議会で取り上げる議題も中心が移され,開催の回数も,従来少なくとも1年に1度であったのが数年間開催しない例も幾度か見られるようになった。この後商議会は4年間開かれなかった。
 大正7年(1918)3月,長い間の本館の懸案であった事務室が竣工した。

旧図書館事務室(現在は保健診療所)
新事務室は煉瓦造平家建で,現在は本館の北隣にあって本学の保健診療所として使用されている。この年12月5日勅令第388号をもって大学令が公布された。大正3年欧洲の一角より始まった第1次世界大戦は,深刻な影響をわが国の人心にも与えたが,これに対応してわが国の教育政策を根本的に考え直すため,大正6年9月内閣に臨時教育会議が設けられた。この会議は小学校教育から大学教育にいたるまで,わが国の教育全般について答申したが,この答申にもとずいて大学令が制定された。大学令は数個の学部を持つ綜合制を原則とするも,単科制も認めることとし,単科大学の成立を認めるとともに,従来の分科大学の名称を学部と改変し,大学全体の総合制の強化をはかった。それとともに国立のほか公立および私立も認め,ここに民間の大学教育は自由にのびうることとなり,以後専門学校より昇格して生れる私立の大学が急速に増えた。
 大学令の制定とともに,従来存在していた帝国大学令は,大学令の下において帝国大学のみに適用される規程となった。そのためこれを改正する必要が生じ,大正8年(1919)2月6日勅令第12号で,明治19年制定の帝国大学令の改正が公布された。この改正により,従来の分科大学は学部となり,また帝国大学令においては教授・助教授等はそれぞれ分科大学の職員で,帝国大学には総長・書記官等の職員があるにすぎなかったが,以後,教授・助教授等はすべて帝国大学教授・帝国大学助教授として,各学部に勤務を命ぜられることとなった。ここにおいても,帝国大学の総合制の強化が行われたのである。
 かくして大学一般については大学令,帝国大学に関しては帝国大学令が公布されて,わが国の大学制度は一応完成し,終戦後学制全般の大改革が行われるまで,この形で存続したのである。この意味において,大正7,8年の新大学令はわが国の大学制度において特筆すべきことである。
 大正8年2月6日の「帝国大学及其ノ学部ニ関スル勅令」によれば,本学の学部は,法・医・工・文・理・経の6学部である。理学部は理科大学として,大正3年7月当時の理工科大学から分離して設立されたものであり,経済学部は大正8年5月創設されたものである。
 このように帝国大学の総合制は強化されたが,図書行政上の綜合制は残念ながら,なんら強化されなかった。分科大学の名称は学部と変ったけれども,各学部はそれぞれ分科大学時代以来の図書取扱規程を持ち,館長の権限のもとに,全学的な図書の運用をはかることは,大正2年の商議会での審議からも察せられるように,非常に困難なことであった。
 館長の地位は,新しい大学制度のもとにおいても,なんら高められなかった。たとえば大正9年8月17日高等官官等俸給令が改正されたが,今東京帝国大学の俸給令によれば,「教授ニシテ学部長医院長ニ補セラレタル者ニハ職務俸八百円以内ヲ給スルコトヲ得」とあったのを「千二百円」と改め,「教授ニシテ天文台長,航空研究所長,伝染病研究所長ニ補セラレタル者ニハ職務俸六百円以内ヲ給スルコトヲ得」とあるのを「八百円」と改め,「教授,助教授ニシテ臨海実験所長,植物園長,演習林長,農場長,薬局長,又ハ図書館長ニ補セラレタル者ニハ職務俸四百円以内ヲ給スルコトヲ得」とあるのを「六百円」と改めた。これを見れば大学内の各組織体の長が3階級に区別されていることが明かであろう。すなわち第1が学部長・医院長であり,第2が天文台長・航空研究所長等のように,それ自体の独自の官制を有する附置機関の長であり,第3が植物園長・演習林長等のように,それ自体の官制を有せず,大学あるいは学部等に附属する附属機関の長である。そして附属図書館長はこの第3に入るのである。
 大正8年12月6日長寿吉司書官の転任にともない,大正9年(1920)1月23日本館司書秋間玖磨が司書官に任ぜられたが,同年11月2日退官した。同月13日山鹿誠之助が司書官に任ぜられた。
 大正9年4月28日第12回商議会を開催した。議題は附属図書館規則執行手続の改正の件であったが,主たる改正案は規則の第1条「京都帝国大学附属図書館ハ京都帝国大学ノ図書ヲ貯蔵スル所トス」とあるのを「京都帝国大学附属図書館ハ本大学ノ図書ヲ収蔵シ図書ニ関スル一般事務ヲ処理スル所トス」と変更すること,および第11条の「夏期休業中図書ヲ借受セントスルトキハ総長ノ許可ヲ経ヘシ」と,第15条「本則ニ依リ総長ノ許可ヲ請フヘキモノハ凡テ館長ヲ経由スルモノトス」の2カ条を削除すること,さらに第17条の「本則ノ執行ニ関スル手続ハ総長之ヲ定ム」を,「本則及本則執行手続ノ改訂ハ図書館商議会ノ審議ヲ経ヘキモノトス」とすることであった。
 今回の改正案の図書館理念の上に持つ意味は大きい。第1は第1条の改正である。図書館を「図書ヲ貯蔵スル所」とする図書館理念を一歩越えて,「図書ヲ収蔵シ図書ニ関スル一般事務ヲ処理スル所」と規程した図書館理念の上における発展を見逃すことはできない。このような理念の発展は,現実の図書館活動に裏付けられていた。たとえば明治42年には全学の外国逐次刊行書目録を刊行し,また明治43年以来全学の増加図書目録月報を刊行するなど,本館の活動はもはや単なる図書の貯蔵管理という次元を脱却していたのである。このような現実の活動に支えられて,「図書ニ関スル一般事務ヲ処理スル」という規程案に到達したのである。しかしまだここには積極的な図書館奉仕の理念は現われてこない。それは第2次大戦後の本館の復興期を待たねばならない。
 第2は改正案中より「総長ノ許可」という字句を大巾に消していこうとしたことである。すでに大正元年以来,規則上総長の権限に属する事項が,館長への委任事項として大巾に委任されていたが,いまやこれを規則中にはっきりと明記し,館長の権限の強化・独立化を意図したのである。
 この改正案は商議会で承認されたが,結局裁定されず,図書館を「図書ヲ貯蔵スル所」とする規程の改正は,戦後図書館理念が大きく改革されるまで待たねばならなかった。
 本館がこのような状態であったのに対し,東大ではすでに大正7年従来の図書館規則を大きく改正していた。いまその第1条をみると,明治19年制定の帝国大学図書館規則では「帝国大学図書館ハ大学院及ヒ分科大学ノ図書ヲ貯蔵スル所トス」とあったのを,大正7年に「東京帝国大学附属図書館ハ東京帝国大学所属図書ノ管理ニ関スル事務ヲ掌ル」と改正されていた。また明治44年東北帝国大学に図書館が創設されたとき,東北帝国大学図書館規程第1条には「本学ニ図書館ヲ置キ東北帝国大学ニ於ケル図書ヲ貯蔵ス」とあったが,大正5年東北帝国大学官制の改正により,はじめて附属図書館となったとき,図書館の規程も改正され,その第1条は「東北帝国大学附属図書館ハ東北帝国大学所蔵ノ図書ヲ処理ス」と改正された。大学図書館の理念は,このように,すでに「図書ヲ貯蔵スル所」という理念を一歩越えつつあったのである。
 一方,当時世相はようやく騒がしくなり,大正9年には森戸事件が発生,「クロポトキンの社会思想の研究」が新聞紙法違反で告訴され,思想・研究の自由は著しく圧迫されてきた。このような圧迫は本館にも及びはじめ,大正10年(1921)11月11日には,京都府警察部より一部雑誌の閲覧禁止が通達されるに至った。
 その後こうした圧迫はますます強められ,ついに大正14年には治安維持法が成立,その直後の翌15年1月には京大学生事件が発生,38名の学生がわが国体および経済組織と相容れない思想をいだいているという理由で逮捕され裁判にかけられた。
 このような世情にもかかわらず,あいついで設立された帝国大学附属図書館は着実に発展し,大正13年(1924)6月には,東大において第1次帝国大学附属図書館協議会を開くに至り,翌14年(1925)5月には,第2次の協議会を本館において開催した。この協議会は大学図書館の協議会としては,日本最初のものであり,現在に至るまで存続し,大学図書館の発展のみでなく,わが国の図書館運動の進展にいろいろと貢献するところが大きかった。
 大正14年7月には鉄筋4階建の第3書庫が増築された。旧館時代の本館の増改築は一応これで終った。いまその概要を挙げれば,つぎの通りである。

名    称 構    造 広    さ
閲  覧  室 木造平家建 159.6坪 (527.6u)
学生閲覧室   115.3〃 (381.2u)
教官閲覧室   12.8〃 ( 42.3u)
新聞閲覧室   6.5〃 ( 21.5u)
出 納 室   16.0〃 ( 52.9u)
玄   関   6.0〃 ( 19.8u)
車   寄   3.0〃 ( 9.9u)
第 1 書 庫 煉瓦造2階建 34.7〃 (114.7u)
    延 69.4〃 (229.4u)
第 2 書 庫 煉瓦造3階建 96.1〃 (317.7u)
    延288.3〃 (953.1u)
第 3 書 庫 鉄筋コンクリート造4階建 35.7〃 (118.0u)
    延142.8〃 (472.0u)
事  務  室 煉瓦造平家建 67.5〃 (223.1u)
図 書 室 (1) 木造平家建 90.0〃 (297.5u)
図 書 室 (2) 木造平家建 18.0〃 ( 59.7u)
昇  降  口 木造平家建 7.8〃 ( 25.8u)
書 庫 渡 廊 下 木造平家建 4.3〃 ( 14.2u)
図書室渡廊下 木造平家建 4.5〃 ( 14.9u)
便 所 渡 廊 下 木造平家建 2.0〃 ( 6.5u)
小  使  室 木造平家建 6.0〃 ( 19.8u)
学 生 便 所 木造平家建 2.5〃 ( 8.3u)
職 員 便 所 木造平家建 2.0〃 ( 6.6u)
  530.7〃(1,754.4u)
    延864.7〃(2,858.5u)

 本学においてはこの間大正12年には農学部が開設され,大正15年には本学最初の附置研究所として,化学研究所が開かれた。このような大学の発展にともない,明治末1,500余人であった学生数も,大正末には学生生徒あわせて3,500人を越える学園へと発展してきた。
 星移り,時代は昭和へと変るが,昭和2年から本格化した不景気は6年に至って頂点に達した。そして満州事変が起り,日華事変へと転じ,さらに大東亜戦争へと,破局への道をたどっていく。時代はますます厳しくなっていくが,昭和10年頃までは,まだまだ大学は時代の嵐にまともに揺がされることもなかった。
 昭和4年(1929)6月10日,第13回商議会が9年間の空白の後開催された。議題は「図書館新営案」の審議であった。新営費総額1,508,248円で,説明にあたった新村館長

 単ニ東京帝国大学附属図書館ノ新ニ宏壮雄大ニ建築セラレタルニ倣ハントスルニアラザルモ,最近東洋文庫天理教図書館東京市深川区図書館等ノ新築ニ当リ,既ニ三拾幾万円乃至七・八拾万円ノ予算ヲ以テ,之ヲ企画シ着手セルニ看テモ,本学ノ中央図書館トシテノ使命機能ヲ充分ニ果サントスルニハ,少クトモ此程度ノ設備ヲ必要ト認メタルニ因ル。今後五十年若シクハ百年後ノコトヲ考フルニ於テ,特ニ其然ルヲ感ズ。余ハ図書館ノ第一使命ニ鑑ミ,学生ニ一般参考用図書ヲ閲覧セシムルニツキテハ,教官ノ直接指導ニ依ラズ,自由ニ独修スルヲ得シメ,兼ネテ思想善導ニモ資セシメントスルニ於テ,大閲覧室ノ必要ヲ痛感スルニ至リタルモノナリ。 今回第1閲覧室ヲ設ケ五百名ヲ収容セシメントスルハ,即チ之ニ基ツクモノニシテ,此五百名ノ算出ハ全学生数ヲ五千名ト見做シ,其1割ヲ認メタルモノナリ。此外ニ約百名ヲ収容スベキ第2閲覧室ヲ設ケントスルハ,各部専門ノ参考図書ヲ読マシメンガ為メニシテ,真ニ研究ヲナサントスルモノト否ラザルモノトヲ分タントスルガ,根本ノ骨子ナリ。新聞閲覧室雑誌閲覧室ヲ分チタルモ此趣旨ニ外ナラズ。(中略) 本職ノ希望スル所ハ,中央図書館ハ七学部ノ共有物ナリト云フ観念ヲ以テ,各学部ヨリ共同後援,協力ヲ受ケタキコトナリ。此際旧来ノ念ヲ一掃シテ,新ニ共同整理ニ当リ,閲覧ノ上ニモ利用率ヲ高メラレンコトヲ懇望止マザルモノナリ。此新シキ考ヲ以テ本案ヲ立案提出シタルモノナレバ,願クハ各位ニ於テモ此意味ニ於テ審議セラレンコトヲ。今左ニ本職ノ腹案トスル図書館事務系統ヲ示サン

尚別ニ各学部ニ司書1人ヲ配置スルコト,恰モ各学部ニ主任書記1名宛ヲ配置スル如クナラシメントス。斯クシテ内外相応ジテ事ニ当ラバ,一層迅速敏活ニ図書整理ノ務ヲ果スヲ得ベシ。要スルニ各学部互ニ相援ケ,総合大学図書館トシテノ機能ヲ充分ニ発揮セシメラレンコトヲ期スルモノニシテ,図書館商議会ガ此間ニ在リテヨク関与指導シ,此目的ヲ助成セシメラレンコトヲ望ム。新設計ニ四十坪ノ会議室ヲ設ケタルハ此意ニ依ル。

と述べた。
 この商議会には新城総長も出席した。かって大正の始めの商議会で,出席した沢柳総長図書統一計画を提案し,分科大学ごとに分置されている図書を本館に集中化すること,分科大学ごとに定めている図書取扱規程を統一すること,さらに目録作製上の統一と,全学図書の整理・運用上の統一化を企図したが実現しなかった。奇しくもまた昭和の始めの商議会で,同様に総長出席のもとに,全学図書行政の統一問題が再度提案されたのであった。しかも今回は前回よりもさらに徹底的に,たんに整理・運用面の統一だけでなく,全学の図書系職員の統合を意図するものであった。そしてこのような理念の実現のための「図書館新営案」が提出されたのである。
 この日の会議は出席者の発言活発をきわめ,議事は難行し,結局大勢は決議を次回に延期することと決した。
 この会議の後,新村館長は総長とともに,当時新築直後の東大図書館見学のため東上し,本館新営案のための構想をさらに練ったのである。
 そして前回商議会より17日をおいた6月27日,第14回商議会が開催された。その席上,館長は東大の模様を詳しく説明した。館長はここで,図書費や一般経常費に関して,東大の数字をあげて本学のそれと対比し,本学の経費の僅少であることを述べ,また,閲覧室の構造と様式(指定閲覧室,一般大閲覧室,オープンスタック等の制度)についても,本学の設備がいかに貧弱であるかを説いた。また,共に東大を視察した総長も次のように報告した。

 専門用図書ト一般用図書トヲ別チ考フルニ,専門用ノモノハ現在ノモノヲ更ニ目録ニテ統一シ,互ニ融通連絡シテ行ク様ニセバ可ナラント思ハル。例ヘバ大学ノ論集ノ如キモノハ,或学部ニテ購入シテ之ヲ中央図書館ニ委託シ置カバ利スル所大ナラン。東大ニテハ大蔵経ヲ各部別ニテ7部購入セル如キ例アリ。之レハ部局相互ニ連絡ヲ欠クヨリ生ズル弊ノ大ナルモノナラン。次ギニ一般用ノモノハ学生ヲシテ広ク高等教育ヲ受ケシムル為メニ,指定閲覧所ヲ設ケテ之ヲ充分利用セシメント欲スルモノナリ。此事ハ各学部ノ考慮次第ニテ,何時ニテモ実施スルヲ得ンカト思ハル。各学部ノ図書費弐拾余万円ノ内,何割又ハ何分ヲ割カバ,直チニ実行シ得ラルベク,場所モ何処カノ室ヲ充当セバ足ルコトト思ハル。此際各部ノ協力ヲ切望ス。本部ニ於テモ充分実行センコトヲ期ス

 これより引き続き,図書事務の組織問題を審議し,各学部の図書取扱の現状を,各学部委員が調査して,次回の商議会で報告し,その後において,各学部より一名宛の委員を選出して,この問題を専門に扱う小委員会を作ることとなった。
 4カ月後の同年10月24日第15回商議会が開催された。前回決定された各学部における図書取扱の現状についての報告がなされ,終って小委員を推挙する件に移り,各学部委員中より一名宛を選出して小委員会が発足した。委員長は商議会委員長が兼ねることを決めた。
 この図書取扱方法の改善を目的とした小委員会の第1回会合は,同年11月21日開かれた。この会合では,図書館側としては,正確な目録を作るために,各学部より図書を送付されることを望み,それに要する日数をできるだけ短縮するために,将来は小型自動車を購入したい。また館長が伝票に捺印する印も司書官に預けるようにしたいと希望したのに対し,法経を除く学部からは,専門の司書を各学部に出張派遣させて,図書を各部に置いたまま,目録事務を遂行できるようにされたいと希望した。また「学部ニ於テハ図書館ハ図書ヲ渋滞セシムル機関ナリトスル外ニ其存在ヲ認メザリシ位ナリ………今後ハ研究上是非中央図書館ニ依ラザルベカラザル様,充分設備ヲ調ヘラレンコトヲ望ム」という声もあり,「外国ニテハ紀要ノ如キモノハ,之ヲ中央図書館ニ於テ発送スル慣例トナリ居レルガ,本学ニ於テモ之ヲ中央図書館ヨリ送付スルコトトシテハ如何」との意見も出された。
 こうして結局新村館長の,全学図書行政の統一化と,その理念の上に立って構想された図書館新営案は実現をみずに終った。しかし大学図書館の理念をめぐっての討議の中から,指定図書制度が提案・可決され,この年から実施されることになった。
 さらに昭和8年(1933)の9月からは,法経第4教室の2階に第2閲覧室が開室され,「教官ノ直接指導ニ依ラズ,自由ニ独修スルヲ得」る大閲覧室という新村館長の構想の一端がここに実現された。
 昭和9年(1934)には,本学の蔵書は100万冊に達した。同年4月21日付の京都帝国大学新聞はこれをつぎのように報じている。
  わが図書館の
    蔵書百万を突破す
      二十余年間に七十万の増加
        東洋一の大文庫
 最近の調査によると,本学図書館の蔵書はついに1,022,632冊(和漢書457,438冊,洋書565,194冊)に達し,本年2月頃100万という太いラインを突破したわけだ。而もこの外寄託本として近衛公爵家近衛文庫10数万冊,久原房之助氏の久原文庫数万冊があり,建物こそ貧弱だが,その内容に於いてはまさに東洋一を誇り得べく,これが完全なる保存と利用のためにも,その新築が学の内外から待望されている。なお館長新村教授の話によれば,今から20余年前同博士館長就任の当時は,30万ぐらいの蔵書だったそうだから,20余年間に70万冊増えたことになる。同館ではこれを記念するため,何らか有意義な催しがあるらしい。

 こうして本館は昭和の前期,大学図書館の理念実現のため,いろいろと努力を重ねたにもかかわらず,それは実現しなかったが,蔵書は順調な増加を示していった。しかし世情はますます暗く,昭和8年(1933)には本学に滝川事件が起って世間を衝動,昭和10年には教学刷新の嵐が教育界に吹き荒れ,大学の頭上にもいよいよ暗雲がおおいかぶさってきた。昭和11年(1936)1月,それから後の暗黒史を予示するかのように,本館閲覧室は不慮の災火に包まれたのである。