第1章 沿革


第3節 第3期(昭和11年〜昭和20年)


1 閲覧室の焼失

 昭和11年(1936)1月24日閲覧室より出火,館員・学生・職員等の必死の努力にもかかわらず閲覧室は焼け落ちた。しかし幸いに書庫・事務室等は焼失を免れたので,図書の損害は僅少であった。昭和8年以来すでに法経第4教室の2階に第2閲覧室を開いていたので,とりあえずそこを主閲覧室として急場をしのいだ。それとともに昭和のはじめから計画されていた「図書館新営案」が,急速に実現を要望されるようになった。昭和11年4月20日付京都帝国大学新聞はつぎのように報じている。

(前略)
 本部構内にある本学図書館はその蔵書は実に100万冊を超え,量に於ても質に於ても断然東洋一を誇るもので,その創設は明治32年にさかのぼる。本年1月下旬不慮の火災のためその附属閲覧室を烏有に帰したことは誠に淋しいことではあるが,幸ひにして100万巻の書物を蔵する書庫は安泰なるを得た。目下は第2閲覧室(法経新館第4教室2階)のみを使用に充てているが,これは座席250を有しており,書庫に遠くなった不便はあるも,学生の必要を充している状態である。然し近き将来において100万円を投じ大図書館建設の準備を整えているから,この不便も解消することと思はれる。 (後略)

 しかし第2閲覧室だけでは,とうてい学生の需要を満たすことはできなかった。そこで同年9月15日より本部大ホールを仮閲覧室として使用することになった。しかし大ホールは本学全体の式典に使用されることがしばしばであり,そのたびごとに閲覧室をとりかたずけなければならなかった。
 こうして曲りなりにも仮閲覧室・第2閲覧室の2つの閲覧室を持つことができたので,閲覧座席数はこと欠かなかったが,両閲覧室と事務室・書庫とは全く離れてしまって,図書の出納のたびに館員はかなり離れた書庫まで往復しなければならず,有機的な図書館奉仕活動など望むべくもなかった。このような閲覧室と書庫との分離は,昭和11年以来戦後の昭和30年新書庫への図書搬入が終るまで,ほとんど20年間も続いたのである。本館の歴史の第3期は,こうして閲覧室の焼失による書庫と閲覧室の分離という,図書館機能の半身不随をもって始まり,昭和20年の敗戦に終る苦難の時代であった。


2 羽 田 館 長 時 代

 この年10月19日新村館長は定年退官し,第4代館長として文学部教授羽田亨博士が就任した。第3代新村館長は明治44年館長就任以来,ほとんど専任館長的に20有余年の長きにわたり,本館発展期の館長として活躍したが,閲覧室焼失後の本館の再建は,定年退官のため,すべてを後任館長に託さざるを得なかった。
 しかし本館の新営案は,すでに早くから新村前館長によって構想されており,昭和4年の商議会以来検討が進められていたが,昭和10年5月には,地上3階,地下1階,書庫7層で総面積2,200坪,閲覧室は2階と3階にそれぞれ設けて,全学生の1割を同時に収容しうるものとし,また各室の設備も近代図書館としての機能を十分に果しうるように設計が進められていた。
 羽田館長は中央アジア史の権威であり,その専攻の学問からして,たんに東西の典籍に深い造詣を持つだけでなく,また考古・美術資料にも通じていた。それで本館新営の構想にあたっても,図書資料の収蔵のみではなく,ひろく博物館的資料も収蔵しうるよう構想を進めたのであった。

第4代館長 羽田 亨
 しかし昭和12年(1937)7月たまたま勃発した日華事変のため,本館新営の着工は遅れ,昭和14年5月になってやって起工することができた。
 12年2月20日山鹿誠之助は司書官を免ぜられ,吉田孫一が司書官に任命された。山鹿司書官は大正9年就任以来在職17年間におよび,新村館長のよき補佐役として,本館の発展期に貢献するとともに,各種展覧会の開催,出版物の刊行にも努めた。
 昭和13年(1938)3月「京都帝国大学附属図書館案内」が刊行された。最初の案内書は明治41年であるから,実に30年の後ふたたび刊行されたものである。こんどのは学生のための図書館利用の案内書であり,明治の最初の案内書がむしろ外部に向けて本館活動の報告をしようとしたのに対し,これは全く内部の学生用として編まれたところに,大きな相違があるとともに,またこの案内書の特色がある。
 同月また「京都帝国大学附属図書館和漢書目録 第1 総記」が刊行された。本書は本学最初の和漢書総合目録で,昭和9年5月着手以来ほとんど4年間の歳月を費して刊行されたものである。以下第2理学(14年刊),第3工学(16年刊),第4医学(17年刊)とあいついで刊行された。昭和10年までに100万冊をこえる蔵書を収集しえた本学が,その豊富な蔵書の完全な記録と十分な活用をはかるため,あいついで全学総合目録を刊行していくとともに,また本館秘蔵の稀覯書を影印頌布し,ひろく学界を裨益した。本館の歴史を通じ,この第3期の昭和10年代は,時代の歩みのもっとも苛烈なときであったのにもかかわらず,刊行事業のもっとも活発に行われた時代であった。
 この年11月25日羽田館長は本学総長に任ぜられたため,館長を免ぜられた。羽田館長は在職満2年と1カ月余で,その期間は短かかったが,館長に補せられる前,すでに文学部長を歴任していた。最初助教授をもって出発した館長の職も,新村教授の就任,さらに前文学部長であった羽田教授の就任,そして館長から総長へ就任することによって,館長の職は学内的に重味を加えることができた。


3 本 庄 館 長 時 代

 昭和14年(1939)1月17日付で経済学部教授本庄栄治郎が館長に補せられた。経済学部教授から館長に補せられたのは,現在までの歴代館長のうち,本庄館長1人である。本庄館長は日本経済史を専攻する学者として知られ,文献に明るく,その点館長としてまことに人を得たということができよう。

第5代館長 本庄栄治郎
この年5月いよいよ図書館新営工事に着手することになり,翌年1月には地鎮祭を執行することができた。本庄館長は就任早々,険悪化する世情の下で,新村・羽田前館長の図書館新営の構想を,いよいよ具体化する図書館新築工事に着手しなければならなかった。しかし新しい図書館を建てるということは,たんに新しい建造物を作ることで万事終るものではない。図書館は建造物ではなくして,建物の中で行われる活動である。それで新館建造は建物だけの建造ではなく,内部の活動組織の構成でもなければならない。そこで本庄館長はいよいよ新館建造に着工する14年2月1日付で,事務臨時規程を制定して,やがて来るべき新段階に対応しようとしたのである。

事務臨時規程実施ニ就テ
 現行本館関係ノ諸規則ヲ見ルニ図書ノ保管ニ関シテハ大正7年本学物品会計施行細則制定ノ際除外セラレタル儘今日ニ及ビ,図書ノ運用ニ関シテハ附属図書館規則並ニ其ノ執行手続存スルモ其ノ中ニハ現状ニ即セサル事項多ク,従テ図書ノ保管並ニ運用ノ内部的事務ニ関シテハ何等明記セラレタルモノナキノミナラズ,庶務・会計・警備等ノ一般事務ニ就テ之ヲ見ルモ系統ノ未タ定マラサルモノ多シ。斯クノ如キハ本館カ本学ノ中央図書館トシテノ機能ヲ発揮スル上ニ一大支障ヲナセルモノト云フヘク,其ノ改正ハ刻下ノ急務ナリト雖,新館竣成ノ上ハ設備ノ改善ト同時ニ事務上ニモ改正ヲ要スヘキ点多々アルコトト考ヘラルルニ付,今応急ノ処置トシテ別冊ノ如キ事務臨時規程ヲ制定シ,軈テ来ルヘキ新段階ニ対応スヘキ準備トシテ来ル3月1日ヨリ之ヲ実施スルコトトス。


 そして,8節・44条にわたる詳細な事務規程が制定実施された。従来この種の事務規程の整備していなかった本館としては,正に画期的なことであった。
 14年10月11日付で九州帝国大学司書官竹林熊彦が,吉田孫一司書官の後任として,本館司書官に任ぜられた。
 12月12日には第16回商議会が,昭和4年の商議会以来10年ぶりに開催された。議題は本館規則および執行手続の字句の若干の改正と,帝国大学相互間の図書貸借の件,帝国大学附属図書館相互の休暇中学生の図書閲覧に関する件等であった。
 12月4日には川端警察署より,学生の読書傾向を調査報告するよう求められた。前年初頭にはすでに国家総動員法が制定され,日本の戦争体制は急速におし進められるとともに,言論統制も強化され,国民が戦争を批判することはもとより,戦争にわずかの疑問をもつことさえないように,いっさいの民主的な組織や思想は,ねこそぎとりのぞかれつつあったのである。
 翌15年(1940)1月20日には新館工事の地鎮祭が行われた。しかし当時すでに日華事変はますます拡大し,一方対英米戦争の準備も進められつつあった。このような時局下であったため,本館の工事も結局地上2階,地下1階のままで中断され,しかも鉄筋コンクリートの外郭ができた程度で,他はいっさい未着手のまま終戦まで放置された。
 昭和16年(1941)1月30日第17回商議会が開催された。議題は
  1. 教官文庫設置の件
  2. 本学出版物収集保存の件
等であった。
 このうち教官文庫の設置は今日まで引き続き実行されているものであり,本庄館長より「本学教官の著述にして図書館に蔵置せらるるもの比較的少数なるが,今後教官の著述は寄贈を請ひ,教官文庫を設置し,学生の閲覧を許し,研学と訓育とに資したい」との説明があって,その設置を決めたものである。
 また教養図書を選定し,備えつけたのもこのころである。そのため学生課と連絡協力して書目を選定し,さらにこれを厳選して381冊を仮閲覧室に置いた。内容は自然科学・政治・経済・歴史,それに時事問題・伝記等をもまじえたが,閲覧統計ではきわめて良好な結果をしめした。
 本館の記録によれば,この年1月24日本館内で京都帝国大学附属図書館史編纂のための懇談会が開催されている。そしてその成果は同年7月発行の日本図書館協会機関誌「図書館雑誌」(第35年7号)に,京都帝国大学附属図書館編として,「京都帝国大学図書館沿革誌」という題で発表されている。のちこの一文は「京都帝国大学史」の中の図書館の項に,そのまま使用されている。思うに昭和15年は皇紀2600年ということで,国家主義思想の大々的な宣伝が行われたが,本学においてもこの年9月学史の編さんを記念事業のひとつとしてとりあげた。そして各部局に編さん委員を委嘱して執筆してもらうことになったが,本館においてもそのために館史編纂の懇談会が持たれたのであろう。しかし本学史の刊行は容易に道まず,18年12月になってやっと刊行された。それで早く稿のなった本館としては,まず専門誌上に公表して,ひろく識者の批判を乞うたのであろう。
 12月8日日本はいよいよ太平洋戦争に突入した。
 昭和17年(1942)2月12日第18回商議会が開催された。議題は
  1. 外国雑誌ならびに図書購入に関する件
  2. 日本綜合図書目録に関する件
  3. 教官文庫に関する件
  4. 館舎新営経過に関する件
であった。
 第1の議題は,時局の影響により外国書の入手が不可能となったが,それについての対策の問題である。当時日本図書館協会ではその対策として,在独日本大使館にドイツで入手しうる図書を集めてもらい,それをトルコ経由で入れて,国内で写真版を作製配布するという方法を考慮中であった。したがって京大としても,この協会案が実現すれば,協会と連絡の上外国図書の写真版を入手したいという本館案が承認された。戦争による洋書輸入の杜絶のため,いかにその入手に苦慮していたかを物語る一幕である。
 第2の議題の日本綜合図書目録とは各帝国大学所蔵の全蔵書の総合目録を作ろうとすることから出発したが,のち文部省が主体となり,国・公・私立の大学おそび有力図書館の蔵書をも含む目録の作製が計画された。10カ年の継続事業で予算は650万円,全部で120冊におよぶ分類目録となるはずであった。議題はこの事業にたいする詳細な説明とその審議であった。
 第3の議題は昭和16年より始められた教官文庫の1年間の実績が報告され,今後も毎年3月に各教官に寄贈依頼状を出すことがきめられた。昭和16年度中における教官文庫への寄贈は,31名86冊であった。


4 沢 潟 館 長 時 代

 この年7月28日本庄館長は館長を辞任し,第6代館長として9月1日付で文学部教授沢潟(おもだか)久孝が館長に補せられた。本庄館長は在職約3年半,せまりくる時局の荒波のもとで,新館新営という本館の再生をも意味する事業を押し進め,内部的には新館建設後の新段階に対処すべき事務規程を整備する等,苦難の多かった本館第3期の一時代をよく導びいたのである。
第6代館長 沢潟久孝
 沢潟館長は文学部国語国文学の教授として日本上代文学を講じたが,万葉学者としてその名は有名である。ところで戦局はこのころより徐々に逆転しアメリカ軍は反攻に転じ始めていた。このような戦局の不利は,学生をも人的資源として戦場に駆り出すことになり,16年からは在学年限の短縮が行われ,17年からはさらにそれが強化された。沢潟館長在職期の本館第3期の後半は,大学が戦争のため大学としての機能を失い,ついに敗戦にいたる惨苦の時代であった。
 この間17年8月22日には竹林司書官が退官,長崎太郎が司書官に任ぜられた。竹林司書官はわが国における図書館学の開拓者として,とくに日本近代図書館史の研究に大きな業績をのこした。翌18年4月1日長崎司書官は在職8ヵ月余で去り,5月8日宮西光雄が司書官に任ぜられた。
 昭和19年(1944年)4月17日より第19回商議会が開催されたが,戦況の悪化は議題を見ただけでもうかがわれる。議題はつぎの通りであった。
 1. 文献疎開ニ関スル件
 2. 図書入手難ニ対スル学生ノ読書利便ニ関スル件
 3. 学生ニ対スル読書指導機関設置ノ件
 文献疎開のための候補地としては,第1次疎開は嵯峨大覚寺岩倉公旧跡保存館第2次疎開は,山科随心院上賀茂演習林附属の建物,保津古川氏土蔵,阿武山地震観測所があげられた。
 つぎに図書の入手難は,前回の会議で問題となった洋書にのみ関するものでなく,すでに,国内出版の図書さえもが入手難となっており,学生個人ではなかなか購読できない。そこで全学部が協力して学生の教養図書を融通し合える体制を作り,教室文庫の如きものを作ってはどうかという案が第2の議題として出されたのである。しかし各学部では教官の研究用専門図書さえ,欲しいものが買えない状態であるのに,まして学生用の教養図書まで購入する余裕は到底ないから,それはやはり図書館において配慮されたいという意見が多く,教室文庫の設置は決定するところまではいかなかった。
 しかしこの問題と関連のある「学生に対する読書指導機関設置」の件は設置することに決した。つぎにその規程をあげる。

図書館読書指導委員会規程
第1条 学生ノ読書指導ニ関スル図書館ノ事業ニ積極的援助ヲナス目的ヲ以テ図書館読書指導委員会ヲ設ク
第2条 委員会ハ図書館長,各学部教官各1名,学生主事1名,及司書官ヲ以テ組織ス
第3条 委員ハ職務上当然委員タルモノノ外ハ総長之ヲ命ズ
第4条 委員ノ任期ハ図書館長及司書官ハ在職年限トシ教官及学生主事ノ場合ハ1年トス 但シ重任スルヲ妨ケズ
第5条 委員長ハ図書館長ヲ以テ之ニ充ツ
第6条 委員長ノ事務ヲ輔佐スル為ニ常任幹事2名ヲ置キ,委員タル学生主事及司書官之ニ当ル
第7条 委員会ハ左ノ事項ヲ審議シ並ニ計画ス
1. 良書推薦
1. 教室文庫ノ選定及斡旋
1. 読書指導ニ関スル座談会,読書会,講演会等ノ計画及斡旋
1. 学生ノ読書利便ニ関スル施設計画
1. 学生ノ読書傾向ニ関スル調査及対策

 この読書指導委員会も第1回の委員会を昭和19年11月6日に開いただけで,その後は全く開催されなかった。第1回の協議事項はつぎの通りであった。
 1. 良書推薦の有効適切なる実行方法
 2. 読書指導に関する座談会,読書会,講演会等の実施案
 3. 学徒通年勤労の動員に対する読書指導案
 4. 閲覧室に開設すべき教室文庫の計画及実施案
 以上のうち良書推薦の実行方法に関する協議中には良書推薦というよりも「如何にせば図書が手に入るかの問題にして,即ち図書の善悪よりは手に入れる方法が肝要なり」と,当時の図書入手難を如実に示す発言もあった。読書会については「図書入手難のため当分の間これを開かず講演会も亦,勤労その他の事で学生生活の変動大なる為集会困難なり」と云う結論が出された。そこでもっぱら座談会形式で読書指導をやることになった。ここで学生課側から,当時の学生の書物に対する関心や,教養全般についての報告がされているので,引用して見よう。

 最近新入学生につき学資補助の問題,寄宿舎入舎の問題に関して100人許りのものに質問せる際,読書に就いて最近高等学校に於ける読書傾向を尋ねし所,完全に答え得るもの殆んど無かりき。よみ物としては例えば寺田寅彦全集とか漱石全集とか云った実に間違いの無き所のもののみにして而かも特に意味を持つものはその問に答えられない。読書はするが莫然として中心無く読書の意欲はあるけれども中心点無し。宮本武蔵も読み漱石も読み武蔵も漱石も雑多にとり入れて只興味本位の有様なり。翻訳書にしてもファウストを読みしがその翻訳者の名を忘れていると云った調子にしてこれ等は現代学生の読書の一面をあらはしているものと考えられる。この傾向に対しては彼等の母校,高等学校に責任が存すると考えられる。事実学生は本は読みたく,本は欲しがっている。例えば或高等学校の話では校長が変りし為,学問的雰囲気が生れて嬉しかりきと云った者もある。また大学に入学した際勤労より解放され書物がよめて喜ばしいと云う。要するに学問が珍らしく感じられるらしい。此の学問が物珍らしいと云うのが大切な点にして,この点から座談会に於てもよろしく具体的方法を考究して戴き度い。

 19年6月13日より,さきの商議会で決定された文献の疎開に着手した。また学生は戦場や工場に動員され,図書館の利用者も少なくなってしまったので,これまで本部大ホールに設けていた仮閲覧室も閉室されてしまった。
 しかし戦局の激化とともに本館職員の応召するものもあいつぎ,職場に残る者も決戦的体制を強いられてきた。そこで沢潟館長職務機構の立体化をはかり,「事務運用上ノ連絡ヲ敏活ナラシメ能率ヲ増進スルコトヲ目的」として,8月1日より館示をもってつぎの通り掛組織を編成した。

 昭和20年(1945)3月18日,政府は閣議において「決戦教育措置要綱」を決定し公布した。これは4月1日よりはじまる新学年にさいして,国民学校初等科をのぞく一切の学校の授業を,むこう一カ年にわたり原則として停止することを命じたもので,教育の玉砕である。本館ならびに本学の文献疎開は決戦体制にそなえてますます急を要したが,輸送に必要なトラック・梱包材料も思うにまかせず,すべては疲労しきった館員の精神力にまたねばならなかった。こうして8月14日医学部の図書を最後として,疎開は一応完了したが,その翌日は終戦であった。そしてそのあとは疎開図書の回収である。こうして昭和20年という年は,図書をあちらに動かしこちらに動かすということで終ってしまった。本館の歴史の第3期はこのような混乱のなかに終るのである。