第1章 沿革・第4節 第4期(昭和21年より現在まで)


1 戦後における図書館の再建

 敗戦によって戦時教育体制は全面的に終止符をうたれ,教育も占領軍によって管理されることになった。それとともに民主主義社会を建設するための新しい新育改革が進められた。
 昭和21年(1946)4月1日「帝国大学官制」が勅令第205号をもって公布され,同時に「京都帝国大学官制」が廃止された。これまで帝国大学はそれぞれ別個の官制を持っていたのであるが,それが共通の官制の下におさめられることになったわけである。
 この新官制の公布により,これまで総長以下教授・助教授・書記官・事務官・司書官・書記・司書等と多くわかれていた職種を,文部教官・文部事務官・文部技官の3つに統一した。その結果明治41年以来,図書館の専門職員として官制上認められてきた司書官・司書の職種はなくなってしまったのである。また官吏の身分も親任官・勅任官・奏任官等の高等文官と,判任官の普通文官との差別をやめ,1級官(勅任官)・2級官(奏任官)・3級官(判任官)の名にあらためた。それで帝国大学官制第16条には,「帝国大学ニ附属図書館ヲ置ク 図書館ニ図書館長ヲ置キ教授若クハ助教授タル文部教官又ハ2級ノ文部事務官ヲ以テ之ニ充ツ」と規程されたのである。
 この年3月にはアメリカ教育使節団が来日した。使節団は1カ月の後日本の教育制度再建のため,いくつかの積極的提案を連合国最高司令官あてに提出したが,そのなかで成人教育に関しては,「一つの重要な成人教育機関は公立図書館である」ことを指摘し,また高等教育に関しては「図書館研究施設および研究所の拡充」を勧告の一つに挙げている。このことは敗戦後の廃墟の中から,民主的社会を建設しようと立ち上りつつあった日本の図書館界にとっては大きな支援となった。
 しかし昭和11年閲覧室焼失後,半身不随的状態を続けていた本館にとっては,戦後の再建は容易なことではなかった。本部大ホールに設けられていた仮閲覧室は戦後第2閲覧室に合併されていたが,第2閲覧室も法経両学部の事情により返却を求められたので,ふたたび本部の教官食堂を一時的に閲覧室にあてるという状態であった。昭和15年に起工した新館も戦争のため,外郭工事を一応完了したままで放置されていたので,1日も早くこれを完成することが焦眉の急であった。しかし京都大学は被戦災校でなかったため,工事,新営の予算をなかなか獲得できず,昭和22年度予算ではじめて163万円の本館工事費の配当を受けることができた。予算はどうやら獲得しても,戦後のあらゆる資材の欠乏していた時代であったため,工事も思うように進行せず,卒業生や関係者の協力でとりあえず閲覧室および事務室など緊急を要するものから着手し,昭和23年(1948年)2月一応竣工式をあげることができた。同年3月閲覧室および事務室をこの新館に移した。
 この時の状況の一端を当時の鳥養利三郎総長は,昭和35年(1960年)6月19日付京都新聞随想欄に,「石を拾う」と題して次のように述べている。

 (前略)あの石の段々(図書館玄関前の石段)については一通りの物語があるのである。ガラス,セメント,木材などは手に入れにくかったとはいっても,卒業生に泣きつけば何とかなったのであるが,階段に使うあれだけの石を,あれだけ数をそろえることは,当時としてはとても安々と出来ることではなかった。さればとて,コンクリートでやったのでは安っぽくて,大図書館の玄関にはうつらない。かって西部構内へガスを引こうとして,ガス管が無くて困った時,大学構内を捜させたところ,あちこちに鉄管がころがっていたので,それを拾い集めて工事を済ませたことがある。その故知にならって,早速構内の大捜査を行なったところ,あるわあるわ。あちらこちらに適当な石がころがっている。それを拾い集めて見たら,あんなに立派な花崗岩の階段が出来上がったのである。 (中略)
 こうして図書館が出来上った時,金文字で正面にはめ込まれてある「京都大学附属図書館」という横書きの額を私に書けということになった。おかげで今も恥をさらし続けている次第である。あの字体はもち論,拙さの極みであるが,書く時の心構えだけは中々慎重なものであったのである。それというのも時の本田事務局長がその方面での中々の文句屋で,あれこれと注意してくれた上に「いやしくも自己流や略字はいけません。正しい字かくで書かなければ」というものだから,吉川幸次郎教授にもうかがったりして,正しく書いたつもりである。石を拾い集めたことは今でも仲間ではよく話の種になる。(後略)

 昭和22年(1947)4月25日第20回商議会が開催された。この商議会は戦後第1回の商議会であるとともに,館長候補者詮衡内規および選挙内規を審議したことにおいて,重要な意味をもつ商議会であった。
 本館にはこれまで館長の詮衡方法および任期に関するなんらの内規もなかった。創設当初専任館長をもって出発したのであるから,そのような規定は全く必要がなかった。しかし新村館長いらい兼任館長が常例となってくるにつれて,とくに館長の任期をきめる必要が起ってきた。沢潟館長は戦前戦後の本館の苦難時代を,見事に1冊の図書の損失もなく守り通し,いまや新館の工事も鳥養総長以下関係者の全力を挙げての協力のもとに,やっと見通しもつきはじめたので,辞意を総長まで申し出た。そこで後任館長を決定する必要が起ったが,鳥養総長は館長候補者の詮衡方法について商議会に諮問した。この諮問に応じて決定されたのが以下の内規である。

附属図書館長候補詮衡内規
  1.附属図書館長候補詮衡の必要を生じた場合総長は図書館商議会に諮詢する
  2.図書館商議会前項の諮詢を受けたときは商議会で詮衡を行い候補者1名を総長に推薦する
  3.附属図書館長の任期は4年とする 但し任期満了のときは同様の手続を経て再任せられることは差支ない
  4.附属図書館長止むを得ない事故の為め任期の中途で更迭する場合後任者の任期は第3項による
附  則
  この手続は昭和22年5月1日から施行する
附属図書館長詮衡手続内規
  第1条 附属図書館長候補者は図書館商議会で委員の投票によって決定する
  第2条 図書館長候補者となることができる者は帝国大学官制第16条第2項の示すところによる
  第3条 附属図書館長候補者の選挙は委員が4分の3以上出席することを要する
  第4条 附属図書館長候補者は1名としその選挙は単記無記名投票を用い過半数の得票者を以て当選者とする 但し委員長は投票に加わるものとす
  第5条 投票の結果いづれも過半数に達せないときは最多数の得票者2名について決選投票を行いその多数を得たるものを当選者とする
  第6条 同数の得票者が2名以上あるときは更にその同数者について投票を行いその順序を定める
  第7条 第4条の決選投票及び第5条の投票の結果その得票が同数のときは年長者を以て当選者とする
  第8条 決選投票の場合候補者は之れに加わらないものとする
  第9条 候補者は止むを得ない場合を除く外は推薦を辞することが出来ない
附  則
  この内規は昭和22年5月1日からこれを施行する

 この内規により5月14日第21回商議会を開き,原随園文学部教授が次期館長に推薦されることになり,5月31日付で沢潟館長は辞任,原教授が第7代館長として就任した。


2 原 館 長 時 代

 原館長は文学部史学科教授として西洋史を担当したが,館長就任前本館商議員として,図書館についても深い理解を有していた。敗戦後における本館再建の第一歩は沢潟前館長により進められたが,そのあとを承け,戦後における大学の理念の混乱期に,本館の再建を果さねばならぬ原館長の苦労は大きかった。

第7代館長 原 隨円
 昭和22年(1947)3月29日,戦後の日本の教育の根本となった「教育基本法」および「学校教育法」が公布され,これまでの大学令が廃止された。そして学校教育法の定めるところにより,修業年限4年を原則とする新制大学が設置されることになった。学校教育法第52条は「大学は学術の中心として広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的・道徳的および応用的能力を展開させることを目的とする」として,旧大学令の「大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」という,国家主義的な大学の理念はここに克服された。しかし法令ひとつで古い伝統をもつ旧制大学が,新制の大学に一足とびに脱皮し,新しい大学の理念を現実に実現していくことは容易なことではなかった。このように大学の理念自体が大きく変革されていくとき,図書館の新しい発展の道を探ることは,なかなか困難なことであった。原館長就任の時は,まさにこのような時代であったのである。
 この年9月30日には帝国大学令の一部が改正され,帝国大学は国立総合大学に改められた。その結果京都帝国大学は京都大学と改称し,本館も京都大学附属図書館と改称された。
 このように大学自体も新しい大学へとはげしくゆれ動いていたが,一方図書館界においても,戦後アメリカの新しい図書館理念がどしどし持ちこまれ,またCIE図書館をはじめ,実際のアメリカ式図書館が全国各地に開設され多彩な活動を開始したとき,日本の図書館界のひとびとは眼をみはる思いをしたのである。大学図書館の中にも,このような館界の新しい動きは,大きな影響をおよぼしたのである。
 この年7月29日近畿日米図書館関係者協会が発会し,図書館間の図書相互貸借制度が事業のひとつとしてとりあげられ,本館もこれに加入することになった。
 9月29日には第22回商議会が開催され,「図書館読書指導委員会および同委員会規程改正の件」が審議された。読書指導委員会は戦時中,勤労動員学生と残留学生に対する教養指導の見地から,学生課と連繋の上設けられていたが,本館内に市民公開学術図書館が,戦後の新しい大学の理念のもとに構想されてくるとともに,市民の読書指導にも当ろうという考えから,同規程の改正が提案され可決された。

図書館読書指導委員会規程
  第1条 学生及び市民の読書指導に関する図書館の事業に積極的援助をなす目的で図書館読書指導委員会を設ける
  第2条 委員会は図書館長及び各学部教授各1名で組織する
  第3条 図書館長以外の委員は学部教授会が推薦して総長が委嘱する
  第4条 委員長には図書館長がなる
  第5条 図書館長以外の委員の任期は1年とする。但し重任を妨げない
  第6条 委員長の事務を輔佐する為に幹事1名を置き,図書館職員から委員長が指名する。
  第7条 委員会は左の事項を取扱う
  1 良書推薦
    2 読書に関する会合,事業等の指導的援助
  3 読書傾向に関する調査及び対策
  第8条 本規程の変更は図書館商議会で決める

 この委員会規程は,大学図書館と市民との直結という,木下初代総長の構想の具現化であり,大学図書館の活動としてはまさに画期的なこころみであったが,なによりもまず食うということに追われていた当時では機が熟さなかったのか,実際には委員会も12月にいちど開かれただけで,昭和30年4月15日規程が廃止されるまで,なんらの活動も行われなかった。
 同年12月4日開催された第23回商議会では「文献調査掛新設の件」その他が審議された。文献調査掛の新設について原館長はつぎのように説明した。
 図書館は書庫としての消極的な立場から積極的に読書指導の方向に発展しているので,文献調査とそのための目録整備は現代の図書館機構上欠くことのできない常識であるが,その需要をみたしかねる本館の現状においては,別紙案のような文献調査掛を新設して,本学に対する任務を充分に発揮させる必要がある。今のままでは図書館が化石化する憂いがあるので,試案をかかげておはかりする次第である。

文献調査掛案
文献調査掛に左の3係を置く
  調査係 資料係 読書指導係
調査係
  本学教職員・学生及び市民公開図書館閲覧者に対する文献調査及び文献閲覧の便宜に関する斡旋をなす為に左の事務を担当する
  1 指定題目に関する文献リストの作製
    (1) 学内所蔵文献に関するリスト
  (2) 学外所在文献に関するリスト
  2 所要文献の所在調査
  3 文献に関する指定要項の調査
  4 所要文献の閲覧又は貸出に関する斡旋
  (1) 対学内的交渉
    (2) 対学外的交渉
        (イ) 各帝大間の相互貸借事務
        (ロ) 帝大外図書館に対する相互貸借事務
  5 図書の一部に対する写真撮影及びタイプによるコピイ作製に関する斡旋 但しこれは版権及び閲覧規程に違反せぬ範囲でなければならぬ 写真撮影には図書館内に写真撮影室が完備していなければならぬ
  6 マイクロ・ファイル・フィルムの充実に関する企画及連絡
資料係
  文献調査に必要なる資料の蒐集並に整備をなす為に左の事務を担当する
  1 本学所蔵図書に関する文献調査資料の整備
  (1) 印刷冊子目録の完成
      (イ) 和漢書(「医・工・理篇」以外の全部)
      (ロ) 洋書(「逐次刊行欧文図書目録」以外の全部)
  (2) 既刊印刷冊子目録に対する増加図書目録の作製
  (3) カード目録の整備
  (4) 特殊文献目録の作製
  2 学外所蔵文献に関する文献調査資料の整備
  (1) 文献目録・統計書・その他文献調査に必要な資料の蒐集
  (2) 日本全国の学術図書の綜合目録(ユニオン・カタログ)の作業に対する分担事業
  (3) 米国国会議院図書館カードの整備
読書指導係
  本学学生及び市民公開図書館閲覧者に対する読書指導をなす為に左の事務を担当する
  1 読書指導に関する企画・連絡・及び斡旋
  2 読書指導に関する研究会・座談会・討論会・講演会等の主催及び之に関連する一切の事務
  3 読書指導調査に関する一切の事務 但し読書指導講座は図書館読書指導委員会との密接な連繋によって常設されるものとす
      右各項目は夫々左の2種類の事務に区分して行われる
 

    (イ) 学生を対象とする事務

      (ロ) 市民を対象とする事務

 文献調査掛は本館ではすでに昭和19年沢潟館長時代,職務機構が改革されたとき,はじめて掛として生れたが,いまや戦後の新しい大学図書館の理念のもとで,さらに構想を新しくして計画され,商議会においても異議なく承認されたが,戦後の館内の人的機構のもとでは,この案の実現は困難であった。
 さらにこの商議会の席上,当時立案が計画されていた図書館法について館長から説明があり,「図書館法ができると,図書を取扱う人に資格がいることになる。それで図書館学が開講されなければならない機運に向いている。人文系学部の方々の諒解を得て,文学部で図書館に関する講義を開き,やがては図書館学の講座にしたい。」「京大に置くとすれば,文学部でやるのがよかろうということに,法経両学部の諒解を得たので,館長の方で案を練っている」ことが報告された。その後文学部で図書館学の講義ははじめられたが文学部の事情で結局講座は置かれず,のち教育学部の設置にともない,教育学部に移された。
 昭和23年(1948)2月,大学基準協会が「新制大学における図書館の重要性に着眼し」て,図書館研究委員会を設け,本学の鳥養総長が委員長となり,大学図書館基準の設定に着手した。そのため関東・関西の両地区に地区委員会を設け,関西地区委員会は23年の3月16日から9月27日までに,委員会4回,小委員会4回を持ち,大学図書館基準関西案をまとめた。これに対して関東地区委員会も関東案をまとめたが,これらの案はいずれも,官公私立さらに単科の大学をもふくむすべての大学図書館に通ずる最低基準を目標にして作られたものであるから,国立総合大学図書館の基準としては不十分であった。それで23年9月北海道大学で開催された 七大学図書館協議会では,国立総合大学図書館刷新委員会を設置し,総合大学図書館の立場から,大学図書館基準案を修正することになった。このように昭和23年は,新制大学における図書館の在り方が,大学図書館界の根本問題としてとり上げられ,大学図書館関係者の熱意は基準の制定に集注されていた。
 さらにこの年の9月には米国人文科学顧問団が来日して,約3ヵ月の滞在ののち報告書を作成したが,その報告書の結びにあたる「勧告」では,相当の字数を,日本の大学図書館に通有な「根本的な欠陥」に費し,その欠陥を図書館行政のあり方に帰している。この指摘は新しい大学図書館のあり方を模索していた大学図書館関係者にとっては,大きな指針となりえたであろう。
 このような大学図書館界の動きに則して,本館においても23年12月24日第24回商議会で,「図書館制度の改正案」が審議された。そして基準案によれば,図書行政の一本化がのぞましいが,そのためには,本学の場合,商議会が大学全般の図書行政の最高機関として,ただ審議するだけでなく決定を行ない,それを中央図書館が執行するようにしたいという案が提出された。しかし審議は図書の貸出,整理という図書事務上の合理化に傾き,結局結論を得るにいたらなかった。
 この問題はさらにその後の商議会においても引きつづいて審議され,24年(1949)5月に開かれた第26回商議会では,本館よりもさらに詳細な「図書行政の改善に関する案」が提出された。その案では
1 図書館長は専任を原則とし,教授または司書官の中から選任する。
2 図書館長が兼務補職である場合は副図書館長を置き専任とする。副図書館長は司書官のうちから選任する。
3 図書館およびすべての部局図書室を含めた大学全般の図書費および図書行政費(人件費および物件費)の合計額は大学費総額の20%を確保しなければならない。
4 図書館経常費は大学全般の図書費および図書行政費の総額の3分の1以下であってはならない。
5 図書館の図書費,人件費,および物件費は図書館経常費に対してそれぞれつぎの比率であることが望ましい。

 図書費 30%
 人件費 50%
 物件費 20%
などが示されたが,実現しなかった。

クルーガー図書館再開のポスター
 24年6月30日より本館内にクルーガー図書館が開設され,一般市民にまで公開されることになった。クルーガー図書館は米国第6軍司令官クルーガー(Krueger)大将が帰国に際して,民主主義的市民教育に資するために,米国学術教科書約500冊を京都市民に寄贈したのに始まる。財団法人原田積善会が100万円の助成金を約束して,クルーガー大将の徳を永く記念するため,昭和21年1月23日,大将の臨席の下に財団法人クルーガー図書館の開館式が四条烏丸東入日本生命ビル分館において挙行された。同年10月より米第1軍団CIE課アンダーソン氏,続いて昭和22年11月ケーズ氏,昭和23年7月マックファーランド女史が指導して,図書の展示,貸出をはじめ諸種の集会・講演会等によって,京都市民の社会教育に力を尽くし,広く市民に親しまれてきた。しかし昭和24年3月都合により,2年5カ月にわたる軍政部の援助を脱し,本館で運営することになり,名実共に市民図書館として奉仕することになった。洋書978冊,和書770冊,他にポケット・ブック(洋書),購入雑誌約30種,新聞5種,寄贈洋雑誌数種で,利用者は1日平均100名から150名を越えるありさまであったが,5カ月後の10月30日,京都府に寄贈されることになり,本館におけるクルーガー図書館は閉館の止むなきに至った。
 クルーガー図書館と同じように,ひろく一般に公開されたものに米国教育文庫がある。これは昭和22年以来,米国政府から日本政府に対して,(1)教科書の編さんを助成するため,(2)教育課程その他学校教育全般の問題の進歩発達に寄与するため,米国の代表的教科書および教育学書その他の教育関係資料が寄贈されることになった。文部省は同年7月,これらの図書によって文部省のほかに,全国に12カ所の「米国教育文庫」を開設し,ひろく一般に公開することになった。本館内に開設された文庫もそのひとつであった。
 本館では22年8月19日この文庫(AEL)を開設し,毎日午前8時より午後5時まで開館した。昭和23年には,文部省は文庫開設の目的を一層有効にするため,米国図書にあわせて日本の教科書,学習指導要領等を加えることになり,名称も「教育課程文庫」と改め,さらに25年7月には,7カ所に文庫が増設され,日本の教育専門書その他の教育資料をも加え,文庫の充実をはかった。こうして全国的にこの文庫の奉仕網は拡大したが,貸出事務の便宜上,各地方の文庫は一応貸出地域を分担していて,本館の分担区域は京都・滋賀・奈良であった。
 本館の教育課程文庫は開設以来11年間,接架式でひろく一般市民にまで利用され,本館もリストの作製・配布,展示会,講演会を開催し,その利用普及につとめてきたが,昭和33年4月教育学部に移管された。
 24年8月31日宮西光雄事務長は本学教養部教授に転ずるため事務長を免ぜられた。宮西事務長は昭和18年司書官として就任以来,沢潟,原両館長を輔佐し,戦中戦後の本館の苦難期に事務責任者として6年有余にわたり努力してきた。その間官制の改革のため,昭和22年11月に本館最後の司書官となり,また本館最初の事務長となった。その在任中はまさに激動の時代であった。
 宮西事務長についで同年11月8日には,原館長が館長兼務を免ぜられ,文学部教授泉井(いずい)久之助が館長に補せられた。原館長は22年5月に沢潟館長の後をうけ,同年制定された附属図書館長銓衡手続内規および附属図書館長候補者銓衡内規により,はじめて公選された館長であった。そして戦後の虚脱状態から,新しい大学制度の制定へと,日本の大学制度全体が大きくゆれ動いた時代の館長として,新しい大学制度のもとにおける大学図書館の発展に努力を重ねたが,任半ばにして,23年9月10日付で文学部長に就任した。しかし館長の後任が決定しないので,図書館長をも兼務していた。また文学部長として図書館商議会委員であり,同時に委員長に互選されていたので,23年9月以来原館長は文学部長であり,同時に商議会委員長でもあったのである。のちに商議会規定は改正され,図書館長が商議会を招集しその議長となるようになったが,原館長によってすでに後年の改正の実が実現されていたわけである。

3 泉 井 館 長 時 代

 昭和24年(1949)11月8日泉井館長が第8代館長として就任するとともに,同月19日には小倉親雄が第2代事務長として就任した。ここに戦後における本館復興期を担う首脳部の陣容が整ったのである。
 この年5月「国立学校設置法」が公布され,「国立綜合大学令」は廃止された。教育の機会均等と,教育の地方分権化を主要な目標とする新学制の線に沿って,この年全国で70の新制大学が発足した。高等教育機関がこのように4年制一本として単純化されたことは重大な改革であった。京都大学も新制大学の一つとして再出発することになり,京都大学附属医学専門部および第三高等学校が包括された。

第8代館長 泉井久之助
 

原館長時代は旧制大学から新制大学への過渡期であり,それにともない図書館理念の混乱があり,大学基準協会は新しい大学図書館基準の設定に着手していた。泉井館長時代に新制大学はいよいよ出発したが,まだ拠るべき新しい大学図書館の理念は確立されていなかった。したがって泉井館長時代の使命は,新しい大学図書館の理念を確立し,そのための体制を整えることでなければならなかった。
 翌25年(1950)10月末より,泉井館長は招かれてアメリカの大学図書館視察の旅に出,翌26年3月帰学したことは,図書館理念の確立をせまられていた本館にとっては,まことに幸いであった。この間,原前館長が館長代理として在任した。
 また昭和25年頃から,人事院は国家公務員の全職種について,その官職の格付をするための「職級明細書」を立案しつつあった。それによれば,大学図書館職員に対しては,「司書職別職級明細書」が適用され,一応独立の職種として取り扱われ,1級司書から5級司書にいたる職級が設定されることになっていた。この人事院の立案は,昭和21年の官制の改革により,司書官・司書という図書館業務のための専門職種が認められなくなって以来,その復活を強く要望していた全国の大学図書館関係者の注目を集めた。一方この年の4月30日にはわが国最初の図書館法が公布され,公共図書館においては専門職員としての司書・司書補が法律の上に明文化された。それにいままた大学図書館においては 「司書職別職級明細書」が適用されようとしている。こうして昭和25年という年は,戦後におけるわが国の図書館界がもっとも湧き立った年であった。しかしこの「職級明細書」の立案は実現せず,大学図書館関係者の期待も水泡に帰した。
 このような館界の動きにともない,本館においても25年7月,職務機構の立体化をはかり,和漢書目録掛洋書目録掛を整理部の下に置き,また受入掛書庫掛および閲覧貸付掛運用保管部の下に置いて,両部に部主任をおき,立体的職務機構を実現した。
 昭和26年(1951)からは本館内に陳列室が設けられ,さらに28年には陳列室に常設の陳列用ガラスケースが完成されたこととあいまって,各種の展示会や,それと関連する講演会がさかんに開催され,本館の所蔵する豊富な貴重図書が広く公開されてきた。
 また26年から,図書館法上の司書・司書補養成のための講習会が本学で夏期開催されることになり,図書館員養成に大きく貢献した。
 昭和27年(1952)2月22日第28回商議会が開催され,懸案の新書庫完成の促進のため,商議会委員長名で総長あてに完成促進の請願書が出された。またこの商議会で,全学の図書事務の合理化について討議され,全学のカード目録の作製,注文図書の発注,納入と受入を一本化して行なうことについて,今後検討することになった。
 この年6月には,23年以来検討されていた「大学図書館基準」が,大学図書館基準協会から発表された。新制大学図書館のあるべき基準を示すものとして,大学図書館関係者の大きな期待がかけられていたが,実際に蓋をあけてみると,結局もっとも貧弱な部類に属する大学が,大学として設立の認可を受けようとする場合に参考とされる審査基準のひとつであって,大部分の大学にとっては縁のうすいものであった。それでも,専門職としての司書,あるいは専門職としての図書館長をうたっている点など,大学図書館の今後の目標を示す点もないではない。
 「大学図書館基準」は国公私のすべての大学図書館に適用されるべき基準であったが,27年7月から,とくに国立大学の図書館のあり方を研究するため,文部省は「国立大学図書館改善研究会」を設置し,翌28年11月には成案を得て,「国立大学図書館改善要綱及びその解説」という全文26頁からなる印刷物が刊行された。この「改善要項」は国立大学図書館のあり方を示したものであり,各大学に対して拘束力を持つものではなかったが,日本の大学図書館がようやくにして到達した理念を示すものであった。泉井館長および小倉事務長はこの改善研究会に参加し,大学図書館全般の発展に貢献したのであった。
 このような大学図書館界の動きの中で28年(1953)10月26日第29回商議会が開催された。まず,11月で任期満了となる泉井館長の後任館長の件については,泉井館長の再選が決定。ついで明治41年制定以来改正されることのなかった商議会規定改正の件が審議され,泉井館長より「大学図書館改善要項」によれば,館長は図書館運営委員会の委員長であることになっている旨の説明があったのち,つぎの改正案が可決された。

京都大学図書館商議会規程
  第1条 京都大学に図書館商議会を置く
   2 商議会は左のものをもって組織する
         1 学部長
         2 学部教授各1名
         3 分校主事
       4 図書館長
  第2条 教授で委員となるものは当該学部教授の互選によって学長が命ずる
   2 委員長は委員が互選する
     3 委員長は商議会を召集してその議長となる
   4 委員長に事故があるときは年長の委員がその事務を代行する
     5 委員長が欠けたときは,先任者の属する学部の長である委員が,委員長選出のときまでその事務を代行する。
  第3条 商議会に幹事及び書記各1名を置く
     2 幹事は図書館事務長をもって充て委員長の事務を補佐する
   3 書記は図書館の事務官をもって充て委員長の指揮をうけて庶務に従事する
  第4条 委員の任期は3年とする
   2 委員長及び委員補欠の場合の任期は前任者の任期による
  第5条 商議会は左の事項を審議する
   1 図書館に関し,学長から諮問のあったこと
   2 図書館長から提議のあったこと
   3 図書館に関し委員から提議のあったこと
  第6条 商議会は委員の3分の2以上の出席によって成立し議決はその過半数による但し可否同数のときは委員長が決する
  第7条 委員長が必要と認めた場合は委員以外の本学職員を委員会に列席せしめることができる。但し議決の数に加えない
附  則
  この規程は昭和28年 月 日から施行する。

 以上の如く,委員の中に図書館長を加えることと,会議の成立条件が新たに加えられたのであった。
 しかしながら,この規程改正でも,まだ十分に「改善要項」の趣旨には合致しえないし,館長の責任も鮮明でない。そこで再度根本的に商議会規程を改正するため,同年12月1日付で「図書館商議会規程改正案」を商議会委員長名で委員に配布し意見を求めた。改正案に添えられた説明は

 図書館商議会規程については去る10月26日その改正につき御審議をお願いいたしましたが,大学の教育と研究の上に図書館の重要性が愈々大きく加わりつつあります折, 一層図書館長の責任を鮮明にし商議会の活動を活発にする件につき泉井図書館長と共に学内諸機関の同種規程を参考にして種々検討を加えました結果,規程を根本的に改訂する必要を痛感いたし別紙の如き改正案を作成いたしました。よって当改正案につき御異議並びに御意見の有無を承りたく何卒宜しく御願いいたします。

であった。
 改正案は異議なく委員の承認を得て29年1月26日より施行された。これが現行の規程であるが,この改正は改正というよりは,全く新しい制定といってもいい。すなわち,従来は列席者であった図書館長は会の主宰者となり,また総長の諮問機関であるという性格も消えた。用語の上では,これまで商議会委員と称していたものが商議員と改められ,委員長は議長となった。かくして図書館商議会と図書館長との関係は根本的に変革されたのである。
 さらにこの回の商議会では,附属図書館規則および同執行手続が改正された。この改正も根本的なものであって,本館創立以来「京都帝国大学附属図書館ハ京都帝国大学ノ図書ヲ貯蔵スル所トス」とあった本館規則第1条が,はじめて「京都大学附属図書館は,京都大学に所属する図書の管理と運用をつかさどる」と改められた。図書館を図書を貯蔵する所と規定する,静的な,書庫の番人的図書館理念を脱却して,「図書の管理と運用をつかさどる」と規定する,動的な,機能的な図書館理念に到達するまでに,本館では54年の歴史が流れている。もちろん,いうまでもないが,このような動的な,機能的な図書館活動が,この規則改正をまってはじめて始められたのではない。規則の改正理由書にも,「規則第1条の改正は当館が現実に遂行しつつある使命をそのまま条文として改めたにすぎず」と書かれている通り,現実はすでに書庫的図書館のあり方をはるかに越えて流れ動いてきていたのである。規則のおくれが,いまここに根本的に改正されたのである。
 さらに注目すべきことは,つぎの場合これまで総長の許可を必要とすることになっていたのを,すべて館長の許可を得ることに改めたことである。
1 教授,助教授,講師で2日以上貴重図書を借覧する必要のある場合
2 職員(教授,助教授,講師を除く),特別閲覧票を有する者並びに学生で貴重図書を閲覧せんとする場合
3 夏季休業中図書の借覧を希望する場合
4 諸官庁又は公共団体に対して図書の貸付を行う場合
5 諸官庁の職員又は公共団体の代表者に公用上図書の閲覧を許可する場合
 かくして図書の管理と運用に関するいっさいの権限が館長に属することになったのである。
 その他従来の片仮名文語体が,ひらがなの口語体に改められるなど,本館規則およびその執行手続はここに全く一変し,新しい大学図書館にふさわしいものとなった。この改正規則は29年1月26日より施行された。
 このようにこの第29回商議会は本館の新しい脱皮をはかったことで,本館史上重要な意義をもつ商議会であった。また,この商議会以降は商議会に回数をつけなくなった。
 28年11月には,運用保管部参考掛が設置され,近代図書館の重要な機能である参考事務をとり扱うこととなった。
 さらに29年(1954)には,本館は近畿地区マイクロフィルム・センター館として,文部省より特別に機材購入予算を得,いよいよ明年度よりマイクロフィルムによる文献複写業務を開始することになった。
 また多年館員一同がその完成を待望していた新書庫も29年には,エレベーター工事を残して完成,30年(1955)7月より図書の搬入を開始し,12月には搬入予定の図書をすべて排架し終ることができた。かくて昭和11年閲覧室焼失以来,書庫と閲覧室との分離に悩まされ続けてきた本館も,やっと本来の姿にかえることができた。これで一応内部は一通りでき上ったが,床の大半はまだコンクリートのままであり,外装もコンクリートの荒壁のままというありさまで,お世辞にも美しい近代図書館建築とは言えない。当初の計画であった地上3階を,辛うじて地上2階まで整備しえたのみである。したがって一日も早く3階を増築し,閲覧室の収容力を現在の2倍にするとともに,近代的な大学図書館として要求される多角的な運営を可能にする建物の余裕をもち,書庫も7層とし収容力を増す等,その完成の早期実現が強く期待されている。

書庫内エレベーター
 昭和31年(1956)には書庫内のエレベーター工事も完成,これによって書庫の機能が飛躍的に増強された。
 この年3月1日付で小倉事務長は教育学部助教授(図書館学講座)に転じ,4月1日付で岩猿敏生が第3代事務長に任ぜられた。小倉事務長は図書館歴も豊かである上に,図書館学についても深い造詣を有し,その点本館の大学図書館としての理念確立期の事務長として,もっともふさわしい人を得ることができたことは,本館の幸いであった。
 31年6月1日の商議会でマイクロフィルム複写内規が審議され,7月1日から本館の複写業務が発足した。複写機はすでに前年購入していたのであるが,複写業務のための要員も運営経費もなく,そのため業務の発足も足ぶみ状態であったが,本館職員1名をこの業務にあててどうやら発足したのであった。
 この10月5日の商議会で,全学図書行政の一本化の問題が提案された。新書庫も完成し,文献複写業務も発足して,一応体制の整った本館が,いよいよまた多年の懸案である全学的な図書行政の合理化,統合化にふみ出したのである。大学図書館活動はただ中央館のみでは十分でない。全学の図書館施設が綜合されてはじめて,大学の教育研究に大きくサービスすることができるのである。そのためにはなんらかの形で全学的な図書行政の一本化が確立されなければならない。しかし各学部ごとにそれぞれの長い伝統をもつ本学のような旧制綜合大学においては,一挙に蔵書から人員にいたるまでの集中主義を確立することは,なかなか困難なことである。それで今回の商議会では図書行政の一本化について,具体的な,つっこんだ討論にまではいたらなかったが,次回からは,まず図書整理業務の合理化が中心問題となっていった。
 当時の本学における図書整理業務は,全学の図書はすべて本館において全学一本の受入番号が与えられ,法・経両学部以外の図書はすべて本館に集められ,本館で目録が作られる。しかし本館で行なう目録作業は本館用の目録のための作業であって,本館で目録作業を終った図書は部局に返されたのち,部局用の目録のため,ふたたび部局で目録作業が行なわれる。図書整理業務上もっとも困難な目録作業が,同一の図書について本館と部局図書室とにおいて,重複して行なわれていたのである。この重複を省くためには,本館ですでに全学図書の目録作業が行なわれているのであるから,本館用カードのコピイを作成して部局に配布すればいい。解決法は明瞭であるが,それが今まで実行できなかったのは,このコピイを作るだけの人的予裕が本館になく,さらに問題なのは,全学的に目録記入法の統一ができていないからである。人員は経費さえあれば,カード騰写という,割に簡単な業務であるから,賃金支弁で雇い入れることもできる。したがって問題はその経費と,目録記入法の統一である。
 まず全学的な目録記入法の統一の問題を本館としてはとりあげ,部局図書室と懇談を重ね,記入上の統一については成案を得た。つぎは経費の問題である。この経費の問題も,カードの配布を受ける部局が実費を負担するということで解決し,34年度よりやっと実施されることになった。こうして目録作業の重複は克服され,全学図書行政の合理化の一端が実現した。
 31年9月にはこれまで運用保管部に属していた受入掛を,整理部に移し,現在の職務機構となった。その機構図はつぎの通りである。


 32年(1957)1月10日より物品管理法が施行されることになった。この法律は国立大学における図書管理方式にいろいろな影響をおよぼし,大学によっては,この法律の施行によって,図書に対する従来の中央管理方式をすて,管理権を部局ごとに分散した大学もあれば,この機に従来の管理の分散を図書館に集中して,図書館が全学の図書管理を行なうようになった大学もあった。本学では創立以来全学の図書は本館で管理するという,集中管理方式がとられていたので,この法律の施行によって,全学の図書の管理官を附属図書館事務長とすることによって,集中管理方式を法的根拠のあるものにすることができた。
 しかし物管法のため,図書館規則を一部改正せざるを得なくなり,32年4月12日の商議会で改正案が審議された。ついで館長任期の問題が審議されたが,当時本館の館長任期は4年であり,4年という任期は全国国立大学中本館のみであり,かつ最長の任期であった。しかも4年の任期では再選されると8年になり,忙しい研究・教育に従事するかたわら館長の職に,このように長期在ることは大変であろうし,かえってそのため今後館長を得にくくなるおそれもあるということで3年ということになって,附属図書館長候補者銓衡内規の一部が改正された。
 この年の夏から泉井館長は欧米各国に翌春まで海外出張することになった。泉井館長の任期は32年10月14日までであるが,7月下旬より海外に出ることになれば館長代理を置かねばならない。しかし帰国は来年3月であるから,海外出張中に任期が満了する。したがって不在中館長代理を置かず,任期前に辞職したいということで,6月28日後任館長銓衡のため商議会が開かれ,法学部教授田中周友が選出され,7月15日付で館長の交替が行なわれた。
 泉井館長は昭和24年本学の新制大学としての出発とともに図書館長に就任し,在職8年にわたり,新制度下における大学図書館理念の確立期の館長として,すでに述べたごとく,昭和28年以来図書館商議会規程,図書館規則,及び同執行手続等本館に関する諸規程を根本的に改革し,新しい大学図書館運営の基礎を確立した。一方本館新館の内部施設の整備にも努力を重ね,昭和29年には新書庫を完成,閲覧室と書庫との分離という,図書館にとっての致命的な欠陥を克服し,近代図書館としての本館の基礎を固めた。さらに参考掛を設置し,文献複写業務を開始するなど,本館業務を大きく飛躍させたのである。

4 現 況

 第9代目の館長にあたる現館長田中周友は,法学部教授としてローマ法を担当している。田中館長は,すでに図書館商議会の商議員として,館長就任前から図書館に関して深い理解をもっていたことは,いよいよ充実期を迎えねばならない本館にとっては,まことに幸いであった。
 さらに法学部から館長を得たのは,初代の島館長が身分上法科大学助教授であったことを除けば,はじめてである。泉井前館長時代は新しい大学制度のもとにおける大学図書館としての基礎造りの時代であったが,今やこの基礎の上に開花させるべき時期を迎えたのである。

現館長 田中周友
 田中館長のまず着手したのは,本館規則および同執行手続の全面的な再検討であった。すでに昭和29年泉井館長によって規則および同執行手続は根本的に改正されていた。しかしその後本館の各種業務は着実に発展し,成長するユーカリ樹がいつか自らの樹皮を破っていくように,徹底的に改正された本館規則も4年足らずでふたたび全面的に改正せざるを得なくなった。そこで田中館長は館長就任後最初の商議会(32年9月3日)で,本館規則の改正を提案,その後数度の商議会で執行手続にいたるまで審議を重ね,従来の「附属図書館規則」「附属図書館規程」と改め,「執行手続」「施行細則」と改められた。これが現行の規程および施行細則である。もちろんその後官制の改革により,若干の字句が34年4月1日改正されている。
 しかし全面的な改正といっても,昭和29年の改正のような根本的なものではない。規程の理念はあくまで29年の規則の理念の上に立つものであって,たとえば文献複写業務の発展のため,たんなる内規に止めておくことができなくなり,新たに「図書の撮影」の条文を起したように,すべて本館の発展が自らにして惹き起したいわば衣更えであった。
アメリカ研究センター図書室
 この年12月1日より本館内に,地磁気世界資料室が開設された。これは国際地球観測年の事業のひとつとして,地磁気世界資料室が全世界に4カ所置かれ,アメリカにセンターA,ソ連にセンターB,デンマークにセンターC1,そして本館にセンターC2が置かれたのである。現在本資料室には世界各地の観測所から,約250の観測点の地磁気資料が,マイクロフィルムあるいはシートで送られてきつつある。国際地球観測年の事業としての観測は昭和33年12月末をもって終了したが,資料の整理交換は現在も続けられ,またひろく内外の各研究機関に資料を提供している。
 34年(1959)4月1日本館地階にアメリカ研究センター図書室が開かれ,5月1日開室式を挙げた。これは昭和30年よりミシガン大学・京都大学・同志社大学の共催で,ロックフェラー財団の援助によって楽友会館内におかれていたアメリカ・セミナー委員会が3月末で閉鎖することになり,その図書約5,000冊が本館に移されることになったものである。本図書室はこの図書を中心にして出発したが,これにたいしては,ロックフェラー財団より,今後3年間毎年8,000ドルづつの図書費が援助されることになった。図書室はその後,ロックフェラー財団よりの図書費によって購入したもの,アジア財団から寄贈を受けたもの等を加え,現在約6,500冊の人文科学・社会科学関係の米書よりなり,本学におけるアメリカ研究のセンター的役割を果している。本図書室は接架式で,座席数30,軽快な感じの室内設備とあいまって,本学における読書施設のうちでもユニークな特色をもった図書室である。
 アメリカ研究センター図書室の開室をもって,現在の本館の内部は一通り整備を終り,もはや一室の余裕もない状態になってしまった。今後本館活動をますます多角的に発展させていくためには,増築の一日も早いことを期待しなければならない。
 つぎに新館の概要と平面図をかかげておこう。

新館概要

 (1 階)    
名称 広サ
事務室 115.7坪 (382.5u)
館長室 19.1〃 (63.1〃)
事務長室 12.3〃 (40.7〃)
陳列室 36.0〃 (119.0〃)
講演室 36.0〃 (119.0〃)
会議室 18.0〃 (59.5〃)
新聞閲覧室 17.0〃 (56.2〃)
地磁気資料室 7.0〃 (23.1〃)
職員休憩室 7.0〃 (23.1〃)
便所(西北部) 5.5〃 (18.2〃)
便所(東南部) 4.5〃 (14.9〃)
小使室 9.0〃 (29.8〃)
廊下及び階段 135.4〃 (447.6〃)
422.5〃 (1,396.7〃)
 (2 階)    
閲覧室 187.4坪 (619.5u)
閲覧事務室 82.8〃 (273.7〃)
目録室 24.5〃 (81.8〃)
名誉教授閲覧室 8.4〃 (27.8〃)
教職員閲覧室 12.3〃 (40.7〃)
便所(西北部) 5.5〃 (18.2〃)
便所(東南部) 4.5〃 (14.9〃)
廊下及び階段 94.0〃 (310.8〃)
419.4〃 (1,386.6〃)
 (地 階)    
文献複写室 50.0坪 (165.3u)
アメリカ研究センター図書室 62.5〃 (206.6〃)
倉庫 29.1〃 (96.2〃)
物置 5.5〃 (18.2〃)
廊下及び階段 53.7〃 (177.6〃)
200.8〃 (663.9〃)
 (書 庫)    
1層 83.4坪 (275.7u)
2.3.4.5層 316.0〃 (1,044.8〃)
399.4〃 (1,320.5〃)
総計 1,442.1〃 (4,767.7〃)



 昭和34年は本館創立60周年にあたる。50周年目は敗戦後の混乱期をやっと抜け出ようとするような時期であったため,なんらの記念行事も行なわれずに終った。先輩各位の苦闘によってやっと発展への基盤を得た今日,深く過去の歴史を探り,明日への新たな発展を期待するため,形はささやかではあっても,全館を挙げて記念の行事を行なうことになった。そのためすでに33年10月7日の商議会で,附属図書館60周年記念出版に関する件が審議され,本館特殊文庫の総合目録の作成,あるいは稀覯書の複製等いろいろの意見が出たが,決定はみなかった。
 34年3月,本学初代総長であり,創設期の本館の発展にあらゆる援助を与えた木下総長の肖像画の修復が完成した。この油絵肖像は額は壊れ,久しく埃をかぶって書庫に保管されていた。そのため永年の間に画面の油が化学変化をして,褪色変色していた。これを今回滝川前総長の肖像画を作成した小栗美二画伯に依頼して修復,新たに額縁も作成してもらったのである。この肖像画は浅井忠画伯の作といわれていたが,今度の修復により,画面にはっきりと1907年C. Asaiというサインがでてきて,浅井画伯の筆になるものであること,1907年の作ということであれば,この画が同画伯の絶筆と考えられること,百号をこえるこの画は同画伯の画としては最大のものであること,また従来の同画伯の作品目録には出ていない作品であること等からして,にわかに新聞面を賑わし,美術愛好者の訪ねるものも稀ではなかった。本館の60周年目にあたる年に木下総長の肖像画の修復がなり,本館閲覧室内の歴代総長の肖像画のトップに飾られ,日夜若い学生たちの勉学を励ますことになったのは,全く奇縁ともいうべきであろう。なお本館閲覧室には現在,木下総長の肖像画のほかに,小西重直(鹿子木孟郎筆),松井元興(鹿子木孟郎筆),浜田耕作(太田喜二郎筆),鳥養利三郎(須田国太郎筆),服部峻治郎(須田国太郎筆),滝川幸辰(小栗美二筆)各歴代総長の肖像画が掲げられており,京都洋画壇重鎮のさながら肖像画の画廊たる観を呈している。
 12月11日の創立60周年の記念式典,およびそれにともなう各種の記念行事のための準備は,着々とすすめられていたが,岩猿事務長が10月より2ヵ月間アメリカ大学図書館視察のためアメリカに出張を命ぜられ,記念行事の準備に参加できなくなった。しかし準備は遅滞なく進み,12月11日記念式典を開催した。
 記念式典は同日午後3時より本館講演室において開催,式は岩猿事務長の司会のもとで行なわれた。式次第はつぎの通りであった。

京都大学附属図書館60周年記念式典式次第
 1 開会の辞
 2 館長あいさつ
 3 総長あいさつ(代理 農学部長渡辺庸一郎)
 4 永年勤続者表彰
 5 来賓祝辞(前館長 新村出名誉教授)
 6 閉会の辞

永年勤続者として表彰されたものはつぎの通りである。

20年以上
 佐々木乾三,鈴鹿蔵,池尾トク

10年以上
 水梨弥久,向井智子,内藤昭子,武田維明,鈴木正武,尾崎富美枝,伊藤祐昭,竹内愛次郎,田中敬雄,鹿野孝代,大沢紀子

 式典後2階閲覧室に設けた宴会場で簡単な祝賀会を開き,新村沢潟泉井の各前館長,竹林,長崎宮西小倉の各前司書官,事務長等をはじめ,多くの旧職員も顔を見せ,懐旧談に花を咲かせ,本館の60周年を祝っていただいた。

60周年記念祝賀会
左から田中館長,新村,沢潟,原の各前館長,渡辺農学部長(総長代理)

 記念行事としては,ほかに記念出版として本館所蔵の重要文化財「孝子伝」の影印刊行,12月9日から10日まで本館陳列室において,「本館創立60周年記念回顧展」を開催するなど,60周年を祝うにふさわしい喜びに館全体がみちみちた。