第3章 図書の運用
第3節 蔵書
現在本館には旧書庫(第2書庫),旧貴重書庫(第3書庫),新書庫の名称でよばれている3つの書庫がある。旧書庫は旧本館に付設した書庫で,現在の本館より約100メートルばかり離れている。新書庫には,2層の一部を金網で区割した新貴重庫があり,ここに重要文化財図書および貴重書の大部分を保管している。
1 蔵書構成
本学の蔵書冊数は,昭和8年6月8日に100万冊を記録し,昭和34年2月16日には200万冊に達している。昭和8年以降毎年の平均増加冊数は約4万冊である。本館は本学の総蔵書冊数の約5分の1の40万冊を架蔵し,蔵書冊数においては誇るに足らないが,創立当初より古典籍の収集につとめたため,国分・国史・中国文学・中国史学に関する珍籍・稀書に恵まれている。
本館は奉仕の対象として,本学の職員ならびに学外の篤志研究者をも含んでいるが,そのもっとも大きい奉仕対象は本学学生である。したがって蔵書構成は,基本図書類をはじめ,各教科にわたる参考書ならびに雑誌・教養書等学生用図書が豊富であることは言うまでもない。
本館の蔵書は普通書と貴重書に大別され,特殊文庫本の大部分は貴重書として取扱われている。貴重書および特殊文庫の詳細については別項にゆずり,ここでは普通書について概説する。
本館の蔵書構成は,昭和25年9月25日現在では次の通りである。
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和 漢 書 |
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第1門 |
宗教・哲学・教育 |
17.82% |
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第2門 |
法律・政治 |
7.86% |
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第3門 |
経済・社会 |
6.3 % |
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第4門 |
文学・語学 |
22.32% |
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第5門 |
歴史・地理 |
19.11% |
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第6門 |
理学 |
5.14% |
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第7門 |
医学 |
4.45% |
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第8門 |
工芸・武技 |
8.3 % |
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第9門 |
産業 |
6.11% |
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第10門 |
全書・叢書 |
2.6 % |
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洋 書 |
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I |
Philosophy |
3.56% |
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II |
Social Sciences |
18.58% |
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III |
Philology |
3.11% |
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IV |
Literature |
17.47% |
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V |
History |
2.77% |
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VI |
European History |
3.32% |
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VII |
Sciences |
32.58% |
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VIII |
Arts & Industries |
9.24% |
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IX |
Geography & Trave’s |
2.64% |
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XI |
Encyclopaedia & Periodicals |
6.73% |
本表は約10年前のものであるから,現在の蔵書構成の実態を忠実に語るものではないが,和漢書とも,その蔵書が人文科学に厚く,自然科学に薄いことは現在においても変らない。人文科学図書が自然科学図書に比して,質量ともに優れていることと,和漢の稀覯書が豊富であることは,本館の蔵書構成の一つの特色と言えるであろう。
2 旧書庫時代
図書館の最初の建造物は明治31年(1898)7月に落成した2階建延70坪の書庫である。現在の新書庫竣工以前は第1書庫の名称で親しまれてきたが,昭和32年文学部に移管され,同学部の標本庫として使用されている。第1書庫建設後,ただちに閲覧室・事務室等が竣工した。
本館創設に際して,最初に書庫が建設されたということは,いかに書庫が図書館機能中に重要な位置を占めるものとして考えられたかを物語るものであり,それは明治32年制定の本館規則第1条に「京都帝国大学附属図書館ハ京都帝国大学ノ図書ヲ貯蔵スル所トス」とあるのに,相応すると言えよう。
本館の蔵書は購入図書に加えて,内外よりの寄贈,または寄託図書があり,蔵書は増加の一途をたどり,第1書庫は建設以来わずか4年にして狭隘となり,明治36年4月には第2書庫を建設せざるを得なくなった。第2書庫の建設直後は,空架の多きを嘆くほどであったが,その後20余年をへて,書架はようや余裕を失い,ふたたび書庫の新設を必要とするにいたった。大正14年8月,当時の建築技術の粋を集めて第3書庫(旧貴重書庫)が増築された。そして第2書庫に保管中の重要文化財「尼崎万葉集」「藤原教長古今集註」,その他の稀覯書をはじめ,菊亭本等の寄託書の秘籍を移転して,その保管の万全を期した。
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左より第3,第2,第1書庫
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昭和11年1月不幸にして閲覧室の一部から火を失して,創立当初の記念すべき木造建造物はことごとく灰燼に帰したが,書庫は幸に類焼を免れ,本館蔵書の大半にはなんの被害もなかった。
本館創設以降,この災火によって蔵書の一部を失った以外には,戦争のため図書を疎開した昭和19年に至るまで,蔵書の保管上特筆すべきことはほとんどないが,明治38年9月特定の学生に書庫検索を許可したこと,明治33年6月に続き同44年11月皇太子(大正天皇)が再度行啓せられ書庫内において本学教授の説明を聞かれたこと,昭和18年8月,書庫検索を大規模に実施したこと等を挙げることができるだろう。
学生の書庫検索については明治32年の附属図書館規則執行手続第20条に「学生ニシテ図書検索ノ許可ヲ得ンカ為メ当該分科大学長ノ保認証ヲ要スルトキハ学科主任教授ノ証明書ヲ添ヘタル願書ヲ其分科大学長ニ差出スベシ」とあって,条文上では学生の書庫検索は創立当初より認められていた。しかしそれは条文上だけの認定であって実施されず,明治38年9月20日に至って実行に移されたものである。ただし第2学年以上の学生に限定され,新入学生はこの恩典に浴することができなかった。
文献疎開
第2次世界大戦の戦局の発展に伴い,東京をはじめ大阪,名古屋,横浜,神戸等全国の主要都市は尽く爆撃による戦火に焼失し,昭和19年京都市も防空特別都市に指定されるにいたった。このため文献防衛のため本館も所蔵図書の1部を疎開する必要を認め,4月17日図書館商議会を開催し,「文献疎開の件」について審議した。本館は商議会の決議によって,ただちに疎開の実施方法,疎開箇所の選定等疎開事項の処置について考慮し昭和19年5月4日,次の文献疎開案を作製して実施凖備に着手した。
文献疎開案
◎要 項
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1.疎開文献保管所 |
2. 疎開文献ノ選定 |
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3.疎開実施ノ方法 |
4. 疎開文献ノ運送 |
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5.疎開文献ノ管理及利用 |
6. 疎開文献ノ保管契約 |
◎細目
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1.疎開文献保管所 |
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1.第1次疎開所 甲地 嵯峨 大覚寺宝蔵 |
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乙地 府下 南桑田郡保津村古川末造氏所有土蔵 |
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2.第2次疎開所 山科 随心院土蔵 |
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文献疎開所トシテ敵弾直撃ノ可能度,兵火以外ノ火災,盗難,運送ノ便宣,随時点検ノ利便,文献保存上ノ設備及湿度等ノ見地ヨリ岩倉鞍馬方面,八瀬大原方面,上賀茂西賀茂方面(下賀茂気象学特別研究所,上賀茂地学観測所及同所隧道上賀茂演習林試験地ヲ含ム)洛西嵯峨方面,洛東山科方面,摂津富田方面(阿武山地震観測所ヲ含ム) 亀岡園部方面,奈良県方面等ノ実地調査ノ結果右ノ三箇所ヲ選定ス。其ノ実地調査ノ概要ハ左ノ如シ。第1次疎開地ヲ2箇所トスルハ1箇所ニテハ疎開文献ノ全部ヲ収蔵スルヲ得ズ,又文献ヲ2箇所ニ分置スルヲ安全トスルガ為ナリ |
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(実地調査概要) |
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嵯峨大覚寺宝蔵 |
〔調査概要省略〕 |
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保津村古川末造氏所有土蔵 |
〔調査概要省略〕 |
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随心院土蔵 |
〔調査概要省略〕 |
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(イ)重要美術品指定図書(国宝) |
3点 |
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(ロ)和漢書 |
350点 |
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(ハ)洋書 |
181点 |
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2.本舘所蔵甲種貴重和漢書 |
747点 |
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3.尊攘堂甲種貴重品 |
32点 |
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4.古梓堂文庫貴重書 |
77点 |
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1.本館所蔵乙種貴重和漢書 |
2,374点 |
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2.「谷村本」貴重書 |
690点 |
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3.本館所蔵貴重洋書 |
65点 |
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4.尊攘堂乙種貴重品 |
58点 |
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5.寄託「近衛家本」貴重書 |
980点 |
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但シ事情ニ依リ1ノ内秘本153点及5ノ980点計1,133点ヲ留保スルコトアル可シ。 |
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其ノ場合ハ乙地疎開文献ハ総計3,034トナル |
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1.本館所蔵凖貴重図書(選定凖備中) |
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1.本館特殊文庫(選定凖備中) |
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1.蔵経書院本 |
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2.中院本 |
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3.日蔵既刊本 |
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4.日蔵未刊本 |
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5.平松旧蔵本 |
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6.富士川本 |
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7.谷村本(貴重書ヲ除キタルモノノ1部) |
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8.蔵経書院真宗本 |
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9.新聞文庫本(1部) |
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10.河合文庫本 |
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1.近衛家本(貴重書ヲ除キタルモノノ1部) |
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2.賀茂御祖神社本 |
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3.菊亭家本(1部) |
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4.島田貞彦本 |
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5.島田乾三郎本 |
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6.皆川[金+享]彦本 |
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7.古梓堂文庫本(1部) |
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但シ本庫ハ本館保管図書ニテ寄託図書ニ非ズ |
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1.疎開文献冊子目録作成 |
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2.荷送前ノ厳重ナル点検 |
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3.種類別ノ箱詰,箱ニ種類名表記 |
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4.運送中責任者ノ附添監視 |
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5.疎開地ニ於ケル荷受責任者ノ待機,荷箱ノ点検及収蔵監督 |
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6.保管所内ニ於ケル保管荷箱ノ位置ニ関スル見取図及記録文書作成 |
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1.本学農場用トラック使用(農場長ノ内諾済) |
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2.1疎開所ニトラック1台1回使用トス |
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1.巡視,月1回乃至数回責任アル巡回監察ヲナサシム |
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2.曝書,年1回之ヲ行ヒ同時ニ点検ヲナス |
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3.研究上閲覧ヲ必要トスル事情起リタル場合ハ責任アルモノ同道立合ノ上閲読ノ便宣ヲ図ル但シ貸付ハナサズ |
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1.保管契約ハ保管所責任者ト本学総長トノ間ニ取定ムル形式トス |
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2.契約期間ハ1年トシ,必要ニ応ジ期間ノ延長ヲナシ得ルヤウニス |
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3.保管所責任者ノ保管責任ヲ左ノ点ニ就テ明記ス |
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1.兵火ナラザル火災及盗難ニ対スル予防 |
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2.万一敵弾直撃,火災,盗難等ノ事項発生シタル場合ノ万全ノ処置 |
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3.保管所ニ保管所責任者及本学指定公用者以外ノモノハ立入ラザルコト |
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4.保管所借用料金ヲ定ム |
昭和19年5月末より6月上旬にわたって疎開図書の包装,荷造等一切の凖備を完了して,6月11日,甲地は京都市右京区の嵯峨大覚寺,乙地は京都府南桑田郡保津村の古川末造氏所有土蔵へ,それぞれ第1次疎開図書4,167点を移送した。
昭和20年に入り戦局はいよいよ熾烈となり,敵機の本土爆撃はますます激しく大都市はいうまでもなく,地方の小都市に至るまで仮借なき爆撃を蒙り,夥しい大小の都市が戦火の中に滅亡していった。
ここにおいて京都府庁は内政,警察両部長名をもって,府下の文化財所有団体に次の通蝶をおくり所有の文化財の疎開を実施するよう勧告を発した。
文化財資料緊急疎開ニ関スル件
標記ノ件別紙要領ニ依リ実施候条御了知ノ上至急御手配相成度追而実施ニ関スル詳細ハ内政部学務課ト打合相成度尚本疎開ハ比較的安全ト思料サル1箇所ヲ選定スルモノニシテ絶対安全ヲ保証致シ難ク候条御諒承相成度申添候
上記の要請によって,本館は昭和20年7月20日第2次疎開を実施した。疎開図書の冊数ならびに包装個数は次の通りである。
京都帝国大学所属疎開図書冊数並ニ包装個数調 (昭和20年7月7日調)
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部局名 |
疎開図書冊数 |
包装個数 |
部局名 |
疎開図書冊数 |
包装個数 |
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図 書 館 |
30,600 |
740 |
法 学 部 |
30,000 |
600 |
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医 学 部 |
9,395 |
470 |
工 学 部 |
1,963 |
94 |
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文 学 部 |
5,500 |
220 |
理 学 部 |
1,491 |
64 |
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経 済 学 部 |
40,000 |
1,000 |
農 学 部 |
6,223 |
321 |
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人文科学研究所 |
6,000 |
200 |
(合 計) |
311,672 |
3,709 |
昭和19年5月4日の文献疎開案では,第2次疎開所として山科随心院土蔵を予定していたが,山科は京都の都心部よりやや遠いが市内であることには変りはなく,市内空襲の恐れもあるため,京都府通蝶の主旨に添い,山科を避けて本館図書の疎開所を京都府北桑田郡知井村知井国民学校の特別教室および講堂兼体操室に変更した。また部局の図書は同郡神吉村神吉国民学校等に,疎開することを決定した。本館,部局ともに7月20日前後疎開荷造を終り,同月22日移送を開始し以後毎日それぞれの疎開先にトラック便による運搬をつづけた。本館は昭和20年8月7日に,また部局は終戦前日の8月14日,医学部の疎開を最後として,図書の疎開をようやく完了することができた。しかしその翌日布告せられた終戦の詔勅によってすべては労して効ない一場の悪夢に終ってしまった。
終戦とともに図書は敵機の爆撃より解放され,その安全性は確保されたが,それと同時に疎開図書を本学に持帰り,それらの図書を一日も早く利用できるようにしなければならなかった。
昭和20年11月14日,北桑田郡周山国民学校に疎開中の図書より回収に着手し,周山,網野,知井の各国民学校,および京都林業種苗場に疎開中の図書を順次収納して同月20日には全部回収することができた。
なお当時の食糧事情がいかにひっぱくしていたかは次の特別配給申請書によっても知ることができよう。
味噌醤油特別配給申請書
今般左記ノ者府下北桑田郡網野村ヘ公務ノタメ滞在致スベク候ニ付テハ標記ノ食糧特別配給相成度此段及申請候也
記
1.品目 味噌並醤油
1.期間
1.人員
1.滞在事由 京都帝国大学貴重図書疎開ニ関スル公務
昭和20年7月15日
京都帝国大学附属図書館長
3 新書庫時代
終戦前後は戦時中の出版統制と戦火による焼失散逸等によって図書の甚しい欠乏を来たし,いわゆる図書飢饉時代を現出したが,本学は幸いに戦災を免れ図書の被害はなく創立以来の蔵書を安全に確保することができた。昭和22年(1946)現在の本館の蔵書数は和書243,656冊,洋書106,715冊計350,371冊であった。
戦後の最悪の条件下ではあったが,骨格建造のまま放置されていた新館の閲覧室,事務室など緊急を要するものを整備補修し,昭和23年3月閲覧室および事務室を旧館より新館に移転した。しかし新館書庫を施工するまでには至らず,新館書庫は依然として骨格のまま残置されていた。それがために書庫は旧館に取残され,新館事務室および閲覧室と全く隔離されるに至った。
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新書庫外観
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新館と書庫は約100米離れ,図書は必要毎にこの距離を往復して出納しなければならなかった。降雨の日は傘をさし,図書を抱え書庫と閲覧室との間を往復するという有様で,大量の図書の出納を必要とする場合は手を拱いて,空しく晴天を待つより外はなかった。このような書庫と閲覧室および事務室との分離は単に閲覧貸出等の奉仕活動を低下せしめるばかりでなく,本館の図書館としての機能を著るしく阻害し,その運営に影響するところが少なくなかった。
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新書庫内部(積層式)
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昭和25年度以後毎年新館仕上工事の完成を要求し,特に書庫の完成を要望したが,容易に実現しなかった。しかし,昭和28年ようやく新書庫の第4,第5層が竣工し翌昭和29年にはエレベーター工事を除いて残部の第1,第2,第3層の内部整備工事が終了し,多年の宿願であった新書庫の落成を見ることができた。
そこで昭和30年,図書利用のもっとも少ない夏期休暇中の7月1日より全館員の協力により,図書の新書庫への移動を始めた。そして6ヵ月後の同年12月6日,約30万冊の普通本全部と貴重書の大部分を新書庫に搬入することができた。それでもなお数万冊の特殊文庫と貴重書の一部を旧書庫内に残置せざるを得なかった。本館蔵書の新書庫への移動にともない,旧書庫内に生じた空架には,その後部局の図書室であまり利用されない図書を約10万冊程収容した。
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新書庫内部階段
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新書庫への図書の移転完了により昭和11年閲覧室焼失以来悩まされ続けてきた閲覧室と書庫との隔離が,ほとんど20年ぶりにやっと解消され,図書館活動もようやく軌道に乗ることができるようになった。その意味において,新書庫の完成はただ単に貴重な蔵書の保管という上において重要であるばかりでなく,本館機能の新しい発展にとっても,画期的な意味を持つものと言えよう。
4 貴重図書
貴重書庫には貴重書の大部分と,中院,谷村,富士川,平松,清家,皆川の各特殊文庫が収蔵されている。しかしこの1廓のみでは大量の貴重書,特殊文庫を収容する余裕がなく,貴重書の1部と,菊亭,蔵経書院,日蔵末刊,日蔵既刊,河合,維新特別資料,陶庵,島田,新聞の各特殊文庫は第3書庫(旧貴重書庫)に保管されている。
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新書庫内貴重庫
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またイスパニア,ロールズシリーズ,旭江,近衛の各特殊文庫は比較的利用が多いため,新書庫第3層の普通本書架に保管している。蔵経,日蔵既刊,同未刊文庫の如く特殊文庫中の二,三のものは,その利用を普通書と同様の取扱規定によって処理しているものもあるが,大部分は貴重書の取扱規定によっている。
貴重書と普通書の限界は図書館の規模,性格,目的,または立地条件等の種々の特殊事情によって異なり,画一的に両者を明確に区別することは困難である。しかし貴重書と普通書と区別して取扱う必要がある以上,両者の区別を制定する何等かの基凖がなければならない。本館は次に掲げる諸事項を判定の基凖とし,この基凖に該当するものを貴重書とし,そうでないものを普通書として両者を区別している。
貴重図書選定標準
第1類 古版本
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1.日本 |
元和以前の古版本(版経,五山版,慶元古活字本,寛永以降のものは特に稀覯なるもの) |
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2.支那 |
宋元版,明初版,清刊本は特に稀覯のもの |
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3.朝鮮 |
李朝古版本及古活字本 |
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4.洋書 |
1,600年以前の古刊本 以後は特別稀覯のもの |
第2類 古写本 |
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1.日本 |
(イ)古写本 慶元以前のもの(写経を含む) |
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(ロ)古文書 (原本及[ボ]本) |
第3類 名家手沢本 |
1.名家自筆本 2.名家抄写本 3.名家書入本 4.名家旧蔵本
1.手鑑 2.詞章,懐紙,詠草類 3.書翰
1.絵巻物 2.冊子及法帖本 3.挿絵本 4.版画類
1.金石文 2.法帖 3.印譜等
以上の如き基凖に従って,貴重書に指定された図書が和漢書約5,000冊,洋書約500冊である。この数字は特殊文庫本の冊数を含まない。従って特殊文庫中の稀覯書約26,000余冊を加うれば優に3万冊を突破することができる。このことは本館が如何に貴重書を豊富に収蔵しているかを物語るものである。
和漢の刊写本では,写本には光明皇后の天平写経,伝恒武,嵯峨両帝の自筆写経をはじめとして,奈良,平安,鎌倉の古写経,鎌倉より室町に至る名家の自筆本,またはその手沢本があり,また版本には春日版,高野版,五山版をはじめとして,現存古活字版の最古のものと称せられている文録4年(1595)刊行の「法華玄義序」をはじめとして,後陽成天皇の「日本書紀」の如き勅版を含む慶元間の多数の古活字版があり,そのほか「伊勢物語」等の珍貴な嵯峨本等,ほとんど各種の版式を網羅している。
古写本,古刊本以外に近世の写本類も豊富に収蔵され,古写本と同様に,名家,磧儒の自筆稿本,またはその訓註,訓点等の書入れ本で,極めて貴重な斯学研究の根本資料も多い。また宋版,元版,明版等中国の古刊本も多く写本中には「永楽大典」の如き珍籍も含まれている。
韓本には「古今歴代撮要」,「玉纂」の珍奇な2書がある。いずれも各1冊の零本であるが,他に類例の見出し難い泥活字印本で,朝鮮活字印刷史上の貴重な資料である。
洋書についても特筆すべきものは少なくないが,その一々について詳細な解題を試みることは,紙面の関係上許されない。以下2,3の例を挙げて,その一班を窺うことにしたい。
St.Augustinusの”Quinquaginta“,出島和蘭商館長のイサーク・チチング(Isac.Titsingh(1744〜1812))に宛てた「チチング宛蘭文書簡集」,「羊皮紙古文書」,「耶蘇会年報書類」等はいずれも珍籍稀書の名に愧じない稀覯書であるが,単なる骨董的図書ではない。それらのあるものは印刷史の特殊研究に,有力な史料を提供するばかりでなく,一般歴史学の重要な参考資料である。
オーガスチンの「Quinquaginta〔50想華集〕」は1475年の刊本で,本館における唯一の揺籃期印刷本(Incunabula)である。本書はヨハン・グーテンベルヒ(Johan Gutenberg 1397〜1467)が最初の活字印刷を試みた1442年よりおくれること33年後の刊行である。かれの活字印刷以来,欧洲各地で活字印刷が流行し,1500年までの約50年間に,総数約4万冊が印刷されたと伝えられている。しかし現在わが国に伝存するものは約30種に過ぎない。本書もその中の1つに数えられている珍籍である。
「羊皮紙古文書」は英国の14世紀より18世紀に至る私文書を主とした収集で,各種の免許状,契約書,遺言状,遺産譲与状等が含まれ,英国史研究の珍奇な資料である。また「耶蘇会年報書類」は本邦駐剳英国公使アーネスト・サトウの旧蔵で,16,17世紀の間耶蘇会派の宣教師が東洋における布教の状況を本国に報告した欧洲諸国語の年報類である。122冊のこの年報は東洋における布教の状況と共に,当時の日本における政治,社会,その他の情勢をあきらかにしている。本邦耶蘇布教史上の貴重な資料であるばかりでなく,安土桃山より徳川初期に至る国史研究上にも不可決な根本資料である。
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チチング宛蘭文書簡集の一部
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更に「チチング宛蘭文書簡集」は長崎出島の和蘭商館長であったイサークチチングが天明,寛政の頃蘭領印度のベンゴールの知事在任中,バタヴィア,長崎および江戸の僚友等より入手した公私の書簡およそ47通を合綴して1本にまとめたものである。書簡は天明5年(1785)より寛政2年(1790)に至る6カ年にわたっている。
発信者には長崎の和蘭通詞のほか,江戸の蘭学者中川淳庵,福知山候朽木昌綱等の名が見出され,当時の蘭学研究者の動勢を伝え,興趣深いものがある。本書は日蘭交通史上の好箇の史料であると共に,わが国蘭学発達史研究の極めて有益な資料である。また開国期に先立って,邦人が外人と往復した文書であることも看過できないであろう。
a.特殊文庫
本館の特殊文庫は,その大部分はある特定の個人,または一家一門が特定の意図と目的の下に収集した特殊図書の集書である。しかしまた,個人や一家一門の集書以外に,イスパニア文庫の如き,一国文化の宣揚と対外親善の目的をもって,その国より寄贈された集書も含まれ,あるいはロールズシリーズの如き学術研究の必須資料として購入した集書もある。
いずれにしても特殊文庫の大部分は公家貴顕の秘庫,伽藍古刹の宝蔵,あるいは個人の筐底深く珍襲された稀書の類である。
現在本館の特殊文庫は17を数え,内寄贈13,購入4,寄託1で,そのいずれを問わず,それぞれの個性と特色をもち,研究者に有力な資料を提供するものである。以下これらの特殊文庫をその創設年代順に挙げ,その一つ一つについて簡単な説明を試みよう。
近衛文庫
近衛文庫は旧五摂家の筆頭である近衛家の旧蔵本である。明治32年本館が設立された時,近衛家伝世の典籍が寄託されることとなり,翌33年6月,篤麿は典籍1,219部10,029冊を本館に永久寄託した。これが第1回目の寄託である。大正4年大正天皇の御即位大典挙行に当り,二条城修理のため城中に保管されていた陽明文庫は東京の近衛邸内に移されたが,文庫中の典籍769部10,606冊が大正5年(1916)7月本館に搬入された。これが第2回の寄託である。
大正12年9月関東大震災に遭遇した篤麿公の嗣子故文麿公爵は,伝世資料の保全と利用を考慮し,本学三浦周行教授を通じて,その祖先の日記,記録等自家に最も関係深い文書,典籍以外の文献98,000点の追加寄託を懇請した。新村出館長は荒木寅三郎総長に文麿公の厚志を伝えた。総長は大学における国史国文学の教授ならびに研究に有力な資料を提供するものとして,文麿公の寄託願を快諾した。
以来山鹿誠之助司書官は井川定慶,藤直幹両嘱託等の協力を得て,寄託図書の整理に着手し,約7カ年の歳月を費して昭和6年一応整理を終り,目録編成を完了した。
近衛文庫は上代より江戸時代末期に至る近衛家歴代の日記,朝廷または公家に関する文書記録等の伝世の史料ならびに多数の珍籍稀書の収集であった。一度この文庫が公開されるや,学内外より文庫を訪れる者は極めて多かった。
しかし,近衛家にはこの文庫以外に国宝の道長筆の御堂関白記をはじめとして神楽歌譜,熊野懐紙等の貴重な古文書,典籍を含む,陽明世伝文庫が保管されていた。この貴重な陽明世伝文庫の万全を期し,また日本古文化の遺芳を永遠に後世に伝えることを念願した文麿公は,この目的のために財団法人陽明文庫を設立して,この古文化財を同文庫に寄贈することを決意した。公の計画の実現には多少の迂余曲折はあったが,昭和13年(1938)11月公の宿望はようやく実現されて,京都市右京区宇多野上ノ谷町1番地に財団法人陽明文庫の創設をみることができた。陽明文庫の完成を機として,公は本館に寄託中の近衛家本を新設の陽明文庫に収納して,近衛家伝世文献の分散を防ぎ,完全な近衛家本の一大集成をつくろうとした。
本館は公のこの趣旨に賛同して,昭和17年1月28日および19年12月20日の2回にわたり,近衛家本の永久寄託契約を解除して,公の熱望に答え,陽明文庫の完成に協力した。ここにおいて明治33年(1900)以来本館に寄託されていた近衛家本は,昭和17年(1942)より返還され,漸時本館より撤収されて陽明文庫に納入された。昭和20年には返還を終り,本館の近衛文庫は,一応ここで解消した。
陽明文庫は本館が約半世期の長期にわたり,寄託典籍の保管を全うし,またよくその価値を最高度に利用した業績に対して,昭和19年12月寄託解除の際,寄託典籍中より219部,3,150冊を本館に恵贈された。この寄贈本がすなわち現在の本館の近衛文庫である。したがって現在の近衛文庫は寄託解除以前の近衛文庫の縮少されたものである。
本文庫は漢籍を主幹としているが,「宇津保物語」「落窪物語」「大鏡」等の古写本,または「医学入門」「古今医鑑」等の慶長元和年間の和刻古活字版も多少はある。「荘子[ケン]斎口義」10巻は宋版の稀覯書であるが,内巻4,9巻の2巻を失うていることはまことに惜しい。「欒城集」前集50巻目2巻後集24巻目1巻3集10巻目1巻,引1巻26冊は嘉靖20年の活字印本で,「荘子 斎口義」とともに本文庫中の白眉である。「雲南通志」等の勅撰の中国地誌類を集成していることも注目されてよい。
維新特別資料文庫
維新資料文庫は品川弥二郎子爵が創設した尊攘堂旧蔵の維新資料の収集である。子爵の歿後攘堂尊保存委員会より尊攘堂所蔵品総数984点内維新資料554部2,169冊を明治33年(1900)本館に寄贈された。
尊攘堂は吉田松陰の遣志に基ずいて創設せられたものである。従ってその蔵品構成の根幹が松陰の書翰,上書,稿本等の遺墨,およびその類縁資料であることはいうまでもないが,松下村塾の俊英,高杉晋作,久坂玄瑞,木戸孝允,山県有朋等の墨蹟遺品も豊富である。しかしこの文庫は単に長州出身の志士の自筆文献の収集に止まらず,広く日本全土にわたり,その階層も皇族,藩主より微録の士に至るまで,身分の如何を問わず,その遺品書跡はおよぶ限り網羅されている。地域的にも階級的にも広く深く採取したこの収集は,幕末志士の思想,学術,行実等を窺知する恰好の伝記資料であると共に,維新史を闡明する最も有力な資料であるといえよう。
個人的伝記資料の他に歴史的事件を物語る文書記録も,この文庫には多量に収容されている。「奇兵隊日記文久3年至明治2年」「奇兵隊寄合書」は元治元年英仏米蘭四国軍艦の下関砲撃と,慶応2年の小倉戦役等における山口藩奇兵隊の活動を記録した原本である。また「三藩盟約書草案」は薩長芸三藩協議の結果決定した盟約書である。この盟約がなって終に討幕の内勅が下され,王政復古の端緒が開かれたのである。この盟約書は大久保利通の自撰自筆であって,「奇兵隊日記」と共に維新史上に貴重な地位を占め,その価値は極めて大きい。
松蔭の歿後松下村塾の塾生は写本料を持寄って塾を維持し,さらに有事の日に備えることを誓ったが,この間の消息を伝えるものに「松下村塾一燈銭申合帖」がある。また文久2年(1862)寺田屋の変に坐して福岡の獄に幽囚された平野国臣が,獄中で筆墨の使用を禁ぜられたため,紙●を以て情懐を託した「平野国臣紙●文字詩歌」等は,困苦欠乏を克服して,軒昂たる意気を示す先賢諸士の風貌をほうふつせしめるものがある。
平松文庫
平松文庫は公家西洞院時慶を遠祖とする平松家伝世の3,100余冊の集書である。平松家は江戸時代の初め西洞院時慶の二男参議時庸が宗家より分家して一家を興し,平松を称したことに始る。子孫は世襲して明治に至り,華族に列して子爵を授けられた。
平松家は近衛家の家司として代々朝廷の記録を司り,日記の家と称せられていた家柄のために,本文庫には同家累代の人々が筆録した朝廷の儀式典例等の記録文書が豊富である。とくに日記類に貴重なものが少なくない。
日記類中,まず最初に挙げなければならないものは「兵範記」「範国記」「知信記」の三種であろう。
「兵範記」は西洞院兵部卿平信範(1112〜1187)の日記で,信範21歳より 60歳にわたるものであるが,その間欠くるところも少なくない。信範自筆の「兵範記」は,29巻が陽明文庫に,25巻が本文庫に収蔵されている,自筆本は当時の宣旨類,その他の文書の裏面に記され,しかも当時のものとしては完全に保存されているから,表裏合せて保元平治時代の平氏側を代表する唯一の根本資料として最も珍重すべきものである。なお原本の欠を補う新写本24巻が別に添付されている。
「範国記」は平(西洞院)範国の長元元年(1028)4月より同12月に至る日記であり,また「知信記」は平(西洞院)知信の天承3年(1131)正月より同3月に至る日記である。いずれも「兵範記」と同様に信範の自筆写本である。両書とも平安朝史研究の貴重な根本資料であることはいうまでもない。
「兵範記」は重要文化財に指定され,また飜刻本もあるが,「範国記」「知信記」は共に未刊で,重要文化財に指定されていないが,史料的価値は「兵範記」に譲るものではない。特に「知信記」の裏文書には史料的価値に富むものが多く,学界より注視されている。なお日記類には「吉記」「管見記」「明月記」「山槐記」「二水記」等が収蔵され,いずれも近世期の複写本であるが,当家が日記の家であったことを首肯させる。
「覚」「控」「日記」等の記録のほか,有職故実に関する文書類も多いが,国文学書も少なくない。万葉,古今等の勅撰和歌集,伊勢,源氏等の物語類の転写,あるいはその註釈にも見るべきものがある。真名字本「平家物語」は平家の一異本として,斯界の研究者より高く評価されている稀覯書である。
その外連歌書に恵まれていることも本文庫の特色の一つとして看過できないであろう。肖柏,宗祗以下当時の名匠の詠草,手引等が多い。漢籍は質量ともに貧しいが,慶長古活字版「後漢書」の如き珍籍も多少架蔵されている。
平松家文庫は明治43年(1910)11月故平松時厚子爵(1845〜1911)が,典籍の保全と学術研究のために伝世の文書記録と典籍を,挙げて本館に永久寄託したことに由来する。大正3年子爵の嗣子時陽子が家督を相続した際,本館は時陽子より寄託図書の一括買上げを依頼され,同年11月これを購入した。
なお平松時厚子爵は弘化2年(1845)平松時言の子に生れ,明治元年仁和寺宮に随って,鳥羽伏見の戦に参じ軍中の書記役を司どり次いで参与,弁事等に任ぜられた。
その後三河国裁判所総督等を経て明治3年6月新潟県知事,同4年11月新潟県令を歴任し,明治17年7月子爵を授けられ,同23年6月元老院議官に任ぜられた。また議会開設以来の貴族院議員であった。
蔵経書院文庫・日蔵既刊本。日蔵未刊本
蔵経書院文庫は日蔵既刊,同未刊文庫と同じく,京都蔵経書院の旧蔵本の収集で,明治38年4月より大正元年にわたって,蔵経書院が刊行した「大日本続蔵経」の底本となった仏典類と真宗関係の仏書よりなっている。
「大日本続蔵経」は中野達慧師が編纂主任となり,先輩,師友の援助を得て名寺の秘庫を探り,あるいは古刹の珍襲を集めて,印度支那の950余人の著述を選集し,1,660部6,957巻に彙輯した全150套,750冊の仏教典籍の一大宝蔵である。続蔵経は「大日本校訂訓点大蔵経」に編入することのできなかった,多数の印度支那の撰述章疏類が続補編入されている。
日蔵既刊文庫は大正3年より10年にいたる8カ年の歳月を費して,中野達慧師が編輯し,蔵経書院が公刊した「日本大蔵経」の底本と,その参考文献の収集である。
また日蔵未刊本は「日本大蔵経」第2部の刊行を予定し,その底本として収集されたが,ついに刊行されなかった。詩文,史伝,雑筆等日本仏教に関する雑纂的名著集である。
「日本大蔵経」は日本仏家300余人撰述の教典,律論および章疏等945部2,200巻の原典が編入された48巻の日本独自の蔵経である。
蔵経書院,日蔵既刊,同未刊の3文庫は,いずれも寺院あるいは僧堂の宝庫または筐底より採集されたもので,貴重な典籍を豊富に包容している。殊に日蔵既刊,同未刊文庫本は日本仏教各宗の開祖,および高僧知識の撰述類が網羅され,また他に類本を求めることのできない稀書も少くない。
この三文庫はいずれも仏典とその類縁典籍の集積であり,また「続蔵」「日本大蔵経」の底本であることに,これらの文庫の他の追随を許さない誇るべき特色がある。
蔵経書院本は大正3年蔵経書院専務取締役松村甚左衞門氏より真宗関係本721冊,続蔵の底本4,270余冊計4,938冊を,また日蔵既刊本は昭和8年4月中野達慧師より798冊を寄贈されたものである。日蔵未刊本は中野達慧師より大正14年2,065冊を購入し,蔵経書院,日蔵既刊の両文庫にならって,一文庫を創設したものである。三文庫はそれぞれの個性と特色を十分に生かしつつしかも渾然と融合して荘厳な仏典の曼陀羅世界を現出している。
富士川文庫
富士川文庫は医学博士,文学博士富士川游氏が,大正6年以降3回にわたって寄贈した氏の旧蔵書4,340余部9,000余冊の集書である。
博士は慶応元年(1865)5月広島に生れ,昭和15年(1940)11月鎌倉で病死した。博士は明治20年広島県医学校を卒業してドイツに留学,明治33年イエナ大学を卒業して帰国し,帰国後は京都,九州,東北の各帝国大学で医学史を講じた。明治45年名著「日本医学史」に対して帝国学士院より恩賜賞を授与され,大正3年に文学博士,同4年に医学博士の学位を授与された。
富士川文庫本は博士がその畢生の大作である「日本医学史」の編纂のため,参考資料として四方に求めて採収した苦心の収書である。文庫は明治以前の和漢の医書と江戸中期以後主として幕末期の西洋医学書の翻訳書より構成されわが国の医学に関する典籍は平安朝より明治初期に至るまで網羅して余すところがないといっても過言ではない。
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富士川文庫の一部
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文庫本の著作年代は平安朝にまでさかのぼるが,その刊写年代は足利期を最古としている。「続添鴻宝秘要抄」は永正5年(1509)の浄雲の自序があり,確証はないが浄雲の自筆と伝えられ,巻末にその子,浄忠の花押がある。また「家伝通外方」は度会常辰の永録2年(1559)の筆写で,「続添鴻宝秘要抄」等と共に書写年代の古い部類の一つであるが,文庫本の多くは徳川期の刊写本である。
刊本中には慶長4年(1595)刊の「延寿撮要」の如き好書家が趣味的に最も愛好する慶長初期の古活字本も多少含まれている。しかし本文庫の目的は図書の骨董的趣味に耽溺することではなく,日本医学の生長過程を跡付け,これを記述して「日本医学史」を編述するために収集された参考資料である。従って本文庫の特色は学術的図書が系統的に,収集されていることである。
本文庫中の稀書珍籍をひとつひとつをここに例示する暇はないが,鎌倉時代の代表的医書である梶原性全の著作,「頓医書」50巻の内巻5〜12は伊沢蘭軒の自筆であり,正親町天皇に奉献して嘉賞を賜った曲直瀬道三の著作「啓迪集」は慶安2年(1640)の刊本であり,また師命を奉じて大槻玄沢が訂正の業に従うこと十年,稿を改めること3回におよんだ杉田玄白原訳の「解体新書」の重訂本等は,数多い稀覯書の一つとして挙げることができるだろう。
「解体新書」「和蘭陀全駆内外分合図」等の如き,和蘭医書の翻訳書も頗る多く,またそれ以外の独,墺,米等の医学書の翻訳書も少なくない。日本近代医学の胚種が,これらの翻訳医学書の中に早くも潜在していたということを看過してはならない。
富士川文庫の収書は時間的には平安朝より明治初期に至り,内容的には内科,外科,産科,小児科,薬学等医学のあらゆる分野を包摂して間然するところがない。
河合文庫
河合文庫は文学博士河合弘民氏が朝鮮史の研究に資するために採集した,朝鮮文書類とその典籍部である。大正8年(1919)博士の遣族よりその旧蔵書793部,2,160冊を購入して,河合文庫を設置し特殊文庫の1つに加えた。
博士は明治6年(1874)に生れ,明治31年東京帝国大学文科を卒業,各地の中学校に教鞭をとり,同40年東洋協会専門学校京城分校の教頭に就職した。在鮮中朝鮮史,特に李朝の財政に関する研究に没頭し,その資料として朝鮮の文書記録をはじめとし参考典籍を各方面に求めて収集した。大正5年8月「李朝税制ニ関スル研究」を江湖に問い,その業績に対して文学博士の学位を得た。その後協会専門学校本校に帰り教授の職にあったが,大正7年(1918)10月47歳で病のため夭折した。
この文庫に集められたものは李朝以後のものであるが,公私の文書記録,政治,経済,宗教,風俗など多方面にわたり,朝鮮の社会史ならびに文化史の研究にも有益な利便を与えるものである。とりわけ朝鮮財政史の研究には必須の貴重な資料である。
文書記録には土地,家屋,物件等の売買に関するもの,公米,公木に関するもの,その他外交,貢物等に関するものが多種多様に収蔵されている。特に李朝の財政に関する資料が豊富であることは,博士の専攻がこの方面にあったことを物語るものである。
典籍も頗る多く収書の範囲も歴史的分野に限定されず,経史子集の全部門を包摂している。収書範囲は極めて広いが,しかもそれが無秩序なものでなくよく統一され体系化されていることは,博士の学習態度が如何に綿密であり,慎重であったかを裏書きするものであろう。
典籍の大部分は活字印本で,朝鮮活字印刷の歴史を実物をもって例示するものものということができる。活字は多く木活字であるが,「西坡集」は朝鮮英祖5年(1729)の鉄活字版,また「文苑黻黻」は朝鮮世祖11年(1466)の行書銅活字版で,他に類例の極めて少ない典籍である。量的には多くないが,この他にも鉄活字等の金属活字版が架蔵されている。
まことに本文庫は李朝300年の歴史の集約であり,またその輝しい文化遺産の凝集であるということができる。
菊亭文庫
菊亭文庫は西園寺実兼の四男兼季を遠祖とする菊亭家相伝の文書・典籍の収集である。
菊亭家は藤原氏,北家西園寺の世系である。西園寺実兼の四男兼季は京都今出川殿に住み,初めて今出川氏を称した。兼季は生来菊を愛し,邸内に多く菊を栽培したために,菊亭右大臣とよばれ,ついにこの名を自らの姓としたと伝えられている。八清家の一つに列なり,琵琶の演奏を家業とし,累世相うけて明治に至り,華族に列して候爵をさずけられた。
本文庫に「御琵琶誓状案」「琵琶許状」「琵琶秘曲伝受事」「琵琶入門誓紙」等琵琶の弾奏法ならびにその秘伝のこと,または「催馬楽譜」「箏譜」「奏琶要録」「仁智要録」「文机談」「楽道伝授状」等音楽,楽器に関する稀書珍籍が豊富であることは,菊亭家が,琵琶の演奏を家職とし,歴代音楽をもって朝廷に奉仕したことに由来する。これら伝世の楽書の原典が邦楽研究の根本的資料であることは多言を要しないであろう。
また「伊勢外宮正遷宮」「春日祭次第」等の神祗行事,「改元勘文」「節会次第」「三節会部類記」「禁中年中行事」等のように近世の宮廷生活ならびにその環境を想察せしめる文書記録も多い。しかもこれらの公家の文書記録は,朝儀典礼の最も権威ある貴重な文献である。
また「今出川家歴代履歴」「今出河家伝」等自家の世系,口宣案等の菊亭家家記類に富むことも,この文庫の一つの特長であろう。しかし本文庫の最も誇るべき点は,室町時代の公卿の自筆日記が収蔵されていることである。日記には「建内記」応永35年〜文安1年,「惟房公記」天文10〜11年,「薩戒記」嘉吉1年8月,「教忠卿記」嘉吉3年5月,「言国卿記」文明8年冬,「言継卿記」天正4年等がある。そのうち「建内記」は万里小路時房,「惟房公記」は万里小路惟房,「薩戒記」は中山定親,「言継卿記」は山科言継の日記で,いずれも自筆本である。
さらにまたこれらの日記はその当時の政治,経済,宗教,風俗等を知る最も貴重な資料である。「建内記」の用紙には消息文等が使用され,その紙背には家領に関する文書案,醍醐三宝院の満済准后等の消息文があり,この紙背文書もまた珍重すべき史料として重視されている。
本文庫の蔵書は菊亭家家記,特に家業の音楽書を主軸として有職故実に関する文書記録をもって構成されている。「源氏物語」「十訓抄」等国文学書も含まれているが,量的にも少なく,質的にも注目に値するものは乏しい。漢籍は極めて少なく「冊府元亀」等二三のものが架蔵されているに過ぎない。
菊亭文庫は大正10年11月に図書872部1,326冊,大正12年12月に図書38部43冊および文書822部が2回にわたり,故菊亭公長侯爵より永久寄託されたものである。
中院文庫
中院文庫は故中院通規伯爵の旧蔵書である。中院家は具平親王を遠祖とする村上源氏の一流で,通方を家祖とし,子孫世襲して明治に至り,華族に列し伯爵を授けられた。
中院家一門の碩学は国文学史上に顕著な業蹟を残しているが,特に同家14代の通勝(1558〜1610),15代通村(1588〜1653)は国文学に造詣深く,特に和歌の巧手として名声をうたわれ,近世国文学に寄与した功績は大きい。
中院文庫は大正12年元住友本社社長住友吉左衛門氏が中院家との姻戚関係の縁故から,通規氏より伝世の文書記録を含む典籍1,041冊を一括購入して寄贈したものである。本文庫は通勝,通村等その一門の学匠の自筆,または転写本,あるいは書入れ等の手沢本等を根幹とし,刊本はほとんどない。
通村,通勝の万葉集,古今集等の勅撰和歌集をはじめとし,源氏物語,伊勢物語等自筆の訓注,評釈等はこの文庫の精粋であり,また最も誇るべき代表的稀覯書である。ことに通勝の「岷江入楚」「詠歌大概」等の源語注釈書,または歌学書,通村,通勝の和歌詠草等の家集,通村の「塵芥記」「愚記」等の徳川初期の日記はいずれも自筆の原本である。
後水尾天皇の歌道師範であった通村は,世尊寺流の能筆として有名であるが,その日記,歌集に残された流麗な墨跡は十分にその声誉を裏書きしている。元和2年(1616)2月の日記に後水尾天皇の歌会のことも見え,通勝の日記と共に,江戸初期の宮廷生活を物語る極めて稀少な根本史料である。
その他通茂,通躬等の国学に関する著述,または註釈,校註等の自筆本も収集されている。また中院家歴世の朝儀典礼に関する書留,覚書等の記録が豊富であることは,この文庫の特色の一つである。記録は朝儀に列し,典礼に参じた公卿の体験的「覚」または「扣」であり,あるいはその祖先より連綿として秘伝された門外不出の「書留」である。
また社寺の祭祀,供養,放鳥等の宗教的行事を内容とする記録も少なくない。伝統と体験に基いて書き残されたこれらの有職故実の原典は,風俗史研究の貴重な素材であると共に,京都皇宮の生態を如実に伝えるものとして興味深い。
量的には多くないが,明治維新の政治的変革を主題とした実録的手記も収められ,物情騒然とした当時の京都の不安な世相が生々しくえがかれている。
中院文庫は通勝,通村の自筆本を経とし文書記録を緯として構成され,中院家学の血脈と伝統をここに見出すことができる。また文庫は中院家学の宝庫であるばかりでなく,それはまた同時に国史,国文学研究の有力な参考資料である。
谷村文庫
谷村文庫は藤本ビルブローカ銀行取締役会長故谷村一太郎氏が収集した旧蔵本である。
谷村一太郎氏は明治4年(1871)富山県福光町の素封家に生れ,長じて慶応義塾大学に入学したが,のちに東京専門学校(早稲田大学)に転じ同校を卒業した。その後帰郷して中越鉄道支配人を経て,泉州紡績会社支配人となり,明治39年藤本ビルブローカ証券会社に入社した。
取締役に就任後,しばしば会社の頽勢を挽回し社運の進展をはかって会社興隆の基礎を築いた。大正14年藤本ビルブローカ銀行会長に栄進し,昭和の大恐慌時代の難局を克服して多大の業績を残した。昭和7年病床に倒れたが,治療につとめた結果,ようやく危機を脱した。しかし昭和8年ついに会長を辞して責任の地位を去り,閑地にいてひたすら健康の保持につとめたが,昭和11年(1936)3月京都で66歳の多彩な生涯を閉じた。
氏は縦横の敏腕を揮い,鋭利な商才を駆使して華々しく実業界で活躍したが,その反面書窓の閑寂を愛し孤燈の下に古書の繙読を楽しむ好学の士であった。氏が単なる一介の事業家でなかったことは「中嶋棕隠と越中」「青陵遺編集」「校註老松堂日本行録」等多数の学究的図書が残されていることでも明らかである。
氏の典籍収集の目標が単なる骨董的趣味でなかったことは,経済学者海保青陵の遺著を捜索して,「青陵遺編集」等の如き経済学の専門的著述の刊行があったことに徴しても十分首肯される。しかし氏の多方面にわたる典籍文書類の収集は,氏の愛書精神によるものであったことも否定できないであろう。特に氏は和漢の古典籍には異常な関心を寄せ,珍籍稀書の入手のためには千金を投じて悔いるところがなかったと伝えられている。
本文庫がほとんど和漢の稀覯書で満され,その豪華さ,潤沢さは目を奪うものがある。すなわち奈良朝では神亀3年(726)の申請筆事,天平12年(740)の光明皇后願経,平安朝では伝桓武天皇筆の写経をはじめとして其他数十巻の古写経,鎌倉時代では建保6年(1218)の大学頭藤原孝範の願文,室町時代では享禄3年(1530)の聚分韻略,天文5年(1536)版の八十一難経等の稀覯書も多数収蔵されている。
その外春日版,高野版,慶元古活字版等の各種の版式が多数に収集されているが,特に五山版は豊富で,氏はこの方面の収集家として有名である。応永11年(1404)刊の「仏祖正法伝」,貞和4年(1348)刊の「景徳伝燈録」はいずれも五山版であるが,わずかにその一斑に過ぎない。宣和6年(1124)の「法苑珠林」,紹興18年(1148)の「経律異相」等宋版の内典類は十数巻収蔵され,「太平御覧零本」「明修本尚書註疏」「明修本礼記正義」巻10零本1冊等稀少な宋版の外典も珍襲されている。
また「勅修百丈清規」等の元版,「欒城集」等の明版も少なくない。殊に「欒城集」は嘉靖20年(1541)刊行の木活字版で,他に求め難い珍籍である。なお明時代の稀書として「永楽大典」を挙げなければならない。本書は巻12929〜12930 1冊の零本であるが,徳富蘇峰翁はこの巻が明の高宗皇帝の部に属し,大典中の圧巻であることを,その箱蓋に揮毫している。
国文学関係の典籍にも貴重なものが少なくないが,特に仙台藩召抱の猪苗代家伝世の連歌書類は,本文庫中の異色の収書として斯界において喧伝されている。猪苗代家は兼載を家祖とし,兼載の養嗣子兼純より代々連歌師をもって伊達家に禄仕し,明治初年の兼道に至っている。
猪苗代家本はそれ自体が他に類例の求め難い体系的な連歌蒐書として貴重な存在であるが,その中でも近衛信尹筆の「何木連歌」「何河連歌」文明9年(1477)の飛鳥井栄雅筆の「連学初学抄」等は,殊に特筆すべき代表的稀覯書であろう。なお「伊勢物語」等の連歌以外の室町期の写本も多数散見するが,猪苗代家本の大部分は徳川期の筆写本である。しかしこの時代のものは猪苗代家連歌の切紙,消息等の伝授書をはじめとして,同家歴代当主の連歌懐紙等で,猪苗代家連家の血脈と系統を伝えている。
谷村文庫が国文学,特に連歌部門に寄与する功績を,もちろん看過することはできないが,本文庫の最も誇るべき特色は,和漢古書の秘籍と版式の網羅ならびに古写経の収集にあるということができる。
本文庫は谷村一太郎氏の嗣子順蔵氏が,氏と姻戚関係にある前館長新村出博士を通じて昭和17年(1942)亡父の遺志を継ぎ,学術興隆の資に供するために家蔵の文書,典籍9,200余冊を寄贈したものである。なお一太郎氏の芳志を永久に記念せんがために,文庫本には秋村文庫の朱印が捺印されている。これは氏の雅号が秋村と称したことによる。
島田文庫
島田文庫は明治時代の仏教学者島田蕃根が島田家伝世の文書記録に,蕃根自身の収書を加えた,図書480点よりなる修験道文献の特異な集成である。
本文庫の根幹は島田家累代の修験道文書,または記録であるが,斯道に関する典籍も含まれている。文献以外の器物は鈴懸,錫杖,笈,法螺貝,頭巾等の修験道修行に用いられる法具,または講式,行事等に供せられる什物,あるいは役行者をはじめとしてその他の先達者の木像等,珍貴な逸品が収蔵されている。
文治4年(1185)筆の「火ウチ次第」の如き類例稀れな古記録も見出されるが,その他はほとんど徳川期の筆写文献である。わずかに昌安撰の「修験問答儀」天文19年(1550)筆,「伊都伎大願寺鐘銘」永録3年(1560)筆,光栄撰「十二道具」天正19年(1591)筆が,室町期の文献として挙げることができる。
刊本は資料的価値においても,あるいは好書的趣味においても,筆写文献に比してはるかにおとり,その数も少ない。またその成立年代においても,正保2年(1645)刊行の「資道什物記」が最古の刊本で,文治4年(1185)に遡る「火ウチ次第」には遠く及ばない。天和4年(1684)刊行の「資道什物記」正保2年版の重印本が,正保2年刊本に続き,その他の刊本はすべてそれ以後のもので,明治41年刊行の「英彦山案内」が最も新しい。
文書記録および書籍のほとんどは作者自身の原典であるが,特に「彦山順峰四十八次第」「峰中相伝」「山伏二字義」「修験護摩口決」等は修験道の核心に触れる秘籍であろう。
本文庫は蕃根の嗣子,元陸軍軍医乾三郎氏が昭和14年10カ年を限り寄託し,斯学研究者の利用に供したものであるが,昭和24年寄託契約が満期となり,その解約の際同氏より購入したものである。
本文庫の旧蔵者島田蕃根は文政10年(1927)周防の徳山に生れ,明治40年(1907)京都で81歳をもって病歿した。蕃根は18歳の時既に天台宗本山派の修験道の法印に叙せられていた。更に三井寺において仏教学を修め,仏教各宗の要義に通じたと伝えられるが,明治の初頭に還俗して,毛利の藩校興譲館の教授となった。明治12年「大蔵経」縮刷の刊行を企てて,福田行誡と相はかって弘教書院を興し,五カ年の日子を費し終に「縮刷大蔵経」40帙419冊出版の大事業を完成した。また蕃根は仏教典籍のの散逸を惜んで,その収集につとめ,よくその保存を計ったことでも有名である。
旭江文庫
旭江文庫は大賀寿吉氏(1870〜1937)旧蔵のダンテに関する典籍約3,000冊の収集である。
旭江文庫の名は氏が岡山の産であり,その故郷の岡山を貫流する旭川に因んで氏が名付けたことに由来する。氏は大阪の武田製薬株式会社の社員として活躍したが,早くから詩聖ダンテに傾倒し,その研究を畢生の業として生涯を賭した。あらゆる機会にダンテ文献の収集に着手し,原典はもとよりダンテに関する限りは新聞,雑誌の断簡に至るまで収集してあますところがなかった。こうして集められた約3,000冊の文献は,その体系的構成の見事さにおいて,わが国においては本文庫以外に他に求めることはできないであろう。
15世紀以前のいわゆる揺藍期本は見出されないが,「神曲」等の16世紀のイタリヤ刊本の稀覯書も数点珍襲され,また収集の多くはイタリア原典である。その外「神曲」の欧米各国語の訳書,またはダンテ評論に関する各国語の文献も収架されている。
旭江文庫は寿吉氏の歿後,一部を同家より購入したものもあるが,その大部分は昭和14年嗣子栄滋氏が故人の遺志によって寄贈したものである。
なおこの貴重な文献が広く学界に利用せられんことを願い,昭和16年旭江文庫目録が“Catalogo della Collezione Dantesca”と題して刊行された。
新聞文庫
新聞文庫は元大阪新聞社記者中神利人氏旧蔵の,幕末より第二次世界大戦の初期に至るわが国の諸新聞とその類縁資料の収集である。
収集領域は日本全土にわたり,三都をはじめ各地方の有名新聞はほとんど網羅されているが,巻号の完全なものは極めて少ない。しかし,幕末明治初期の諸新聞で伝存するものが甚だ少ない今日,この種の稀少な新聞がこのように多量に比較的良好な状態で保存されていることは注目されてよいだろう。殊に幕末明治初期に創刊された揺藍期の諸種の新聞,なかんずく錦絵新聞と瓦版が含まれていることは特筆に値する。
わが国新聞の発祥といわれる文久2年(1862)の官板「バタビヤ新聞」等の翻訳新聞,慶応3年創刊の「万国新聞紙」等の外国人経営の新聞類をはじめとして,「郵便報知新聞」「北国新聞」等中央,地方の有名無名の多種多様の新聞を包容している。また明治初年江戸,横浜において発行された「中外新聞」「江湖新聞」「もしほ草」等のいわゆる佐幕派新聞があり,また佐幕派新聞に対して「都鄙新聞」等の京都発行の尊皇派新聞が同床異夢していることも興味深い。
特に瓦版,錦絵新聞等はこの文庫の特異な存在である。瓦版は元和元年(1616)板行の「大阪阿部之合戦之図」,「大阪卯年図」がその最初であると伝えられているが,架蔵のものは幕末期の地震,火事等の天災を取扱ったものが多く,社会的事件を主題としたものは比較的少ない。「大阪大火之図」「京都大火之図」,「大江戸類焼地震場所付」等はいずれも幕末期のもので,瓦版としては最も普通のものでめずらしくはないが,「江戸神田橋外女仇討天保6年」,「肥後国海中の怪弘化3年」,「紅毛国舶来剛猪天保3年」等は,当時の耳目を衝動せしめた事件を報道した極めて珍稀な瓦版である。
錦絵新聞は文を附随的説明とし,錦絵を主とする新聞で,明治初年より同10年頃にわたて東京,大阪で板行された一枚刷の新聞である。
「東京日々新聞」,「大阪新聞錦絵」,「日々新聞」,「錦画百事新聞」等数種類が架蔵されているが,特に「平仮名絵入新聞」は注目されてよい。「平仮名絵入新聞」は落合芳幾等が麗筆を揮った錦絵新聞で,明治8年(1875)創刊のわが国最初の錦絵新聞である。錦絵新聞は江戸時代の瓦版と錦絵が融合同化して,今日の新聞形式に変形したものとも見られ,しかもその同化の中に両者の原形が想像され,江戸時代の情緒もしのばれて,甚だ興趣深いものがある。
なお新聞の号外,附録はいうまでもなく,こと新聞に関する限りは書籍,雑誌の類に及ぶまで広く収集されている。例えば明治新聞界の先覚者であり,元老であった成島柳北,矢野文雄の焼付写真が採取されているが如きはその一例に過ぎない。
本文庫は昭和16年,17年の二回にわたり,大阪朝日新聞社主上野精一氏が贈与した多額の寄金をもって,中神利人氏より購入した648部約861冊の新聞,およびその参考資料である。
なお本学経済学部にも上野氏が昭和33年3月以降現在に至るまで寄贈を続けている新聞関係,および社会学関係の和書800冊以上,洋替6,400冊以上の収書が上野文庫と名付けられ保管されている。
陶庵文庫
陶庵文庫は本学創設当時の文部大臣として本学の設立に尽力した故西園寺公望公爵の愛蔵書680部8,046冊の収書である。
公は嘉永2年(1849)10月,八清家の一つである京都西園寺家に生れ,昭和15年(1940)92才の高齢で逝去した。明治,大正,昭和の三代にわたって政界に君臨した政治家である。しかし公は単なる一介の政治家ではなかった。
和漢の学を好み,殊にフランス文学を愛し,また陶庵と号し書画をもてあそび,風月を友とする趣味の人でもあった。
陶庵文庫の蔵書構成が和漢洋の広い範囲に及び,頗る変化に富んでいることは,公の高い学識と,深い教養を物語るものであろう。
本文庫の中核は漢籍で,冊数も最も多く,洋書がこれにつぎ,和書は量的にも質的にも,はるかに前二者に及ばない。漢籍は経子史集にわたり,和書も多種多様であるが,いずれも体系的に組織された収集ではない。洋書はほとんどフランス文学の原書で占められている。これによっても公がいかにフランス文学を愛好したかが窺われる。
漢籍には四部叢刊等の大部の学術的叢書もあるが,特筆しなければならない稀覯書は乏しい。永楽18年(1420)刊行の「剪燈余話」をはじめとして,「三国志」,「前漢書」等の崇禎年間の明版が散見されされるに過ぎない。従って本文庫に多くの珍籍,稀書を期待することはできない。
この観点よりすれば本文庫を高く評価することは不当であろうが,本文庫の意義と価値は,本学の創設に力を尽した公遺愛の手沢本の収集であることにある。
本文庫は公の歿後,その嗣子八郎氏が,公と本学との特別な関係を考慮して,昭和19年公が生前最も愛好した京都の別邸「清風荘」と共に寄贈したものである。
皆川文庫
皆川文庫は徳川中期の碩儒皆川淇園(名は愿,字は伯恭)の著書,もしくは手註本69部400冊の収書である。
淇園は享保19年(1734)12月に生れ,幼時より俊敏をもって聞えたが,その父春洞の薫陶を受け,自らも刻苦して経史百家の学を体得した。長ずるに及んで一家の学を創始し,開物学を提唱して易学研究に傾倒し,また字義学に明るく「名疇六篇」を著述して易,詩,書等六経を釈註した。寛政期京都の儒者文人を代表する一人として盛名を喧伝されたが,文化4年(1807)同地で病歿した。
全国津々浦々よりその門下に蝟集して教を乞うもの3千余人と伝えられ,堂上公卿をはじめとして,平戸侯等の諸侯が門人の籍に名を連ねている。淇園がいかに当時の人士より信望せられていたかは,これによっても容易に想像できるであろう。
しかし淇園は単なる一介の経学者ではなく詩文に長じ,書画をよくし,糸竹を玩ぶ等多芸多能の才子であった。「著ト考誤弁正」,「易学階梯」,「大学解説」等,その著書も文字通りの汗牛充棟で枚挙することができない。
本文庫には「易学階梯」,「詩経繹解」,「礼記繹解」等の六経の注解書,「韓柳文抄評註」,「欧蘇文弾」等の文学・語学書の評釈,「遷史戻陀」等の史書が架蔵され,いずれも淇園の自筆稿本である。その中には稿本のままで世に弘布せられないものも多い。本文庫の特長はその収書が皆川家の伝世本であり,しかもそれがすべて淇園自身の手沢本であるばかりでなく,その中に多数の自筆稿本が珍襲されていることであろう。
「名疇」もその自筆本の一つで,淇園が開物学に立って,孝悌忠信仁義道徳諸名物を審釈したもので,天明10年(1789)の自序をもつ刊本の稿本である。自筆本以外に他筆の筆写本もあるが,その多くには淇園自らの書入れがあり,淇園の机上にあったことを物語っている。
刊本も少量収蔵されているが,それ以外はほとんど筆写本である。刊本は流布本でそれ自体は誇るに足らないが,いずれの刊本にも淇園の書入れがある。刊写本の如何を問わず,その訓点,訓註,または書入,押紙等は淇園の学問的思惟と,その学統を窺わせるもので,淇園学ならびにわが国の儒学史研究に有効な資料を提供するものといえよう。
皆川本は淇園第4世の子孫皆川[ジュン]彦氏より大正2年6月寄託されたが,昭和24年12月氏の申出により寄託を解除し,一括購入して皆川文庫と名付け,淇園の学業と遺徳をながく後世に伝えることとなった。
イスパニア文庫
イスパニア文庫はイスパニア国最高学術研究会議の配慮により,昭和25年同国政府より寄贈された同国の現代学術図書である。第2次世界大戦後イスパニア国政府は日本にイスパニア学を樹立して,日西両国の親善と文化の交流に資するため寄贈していた1,300余冊の学術書が,文部省に保管されていた。
泉井久之助館長はかねてからフランシス・ザビエルともっとも縁故の深い京都の地に,この学術文献の収書を誘置しようとして,幾度か文部省と折衝を重ね,また関係方面に援助を求めてきた。昭和25年ようやく文部省は本学にこの収書を移管することになり,こうして本館にイスパニア文庫がおかれるにいたったのである。
収書は自然科学,人文科学の両分野にわたる現代イスパニア国を代表する最高の学術書である。その中には単行本以外の調査報告,論集,紀要等の逐次刊行書も多量にふくまれている。
収書は14部門に分類され,第1部門より第13部門までは神学,哲学,教育等の精神科学と物理学,化学,精密学等自然科学の単行本840余冊の収集であるが,第14門は逐次刊行書470余冊よりなる。分類部門数が示すように,収書の種別は多様であるが,出版年代は1941年より1950年に至る約10カ年のものである。したがって稀覯書,珍籍と称すべきものはもちろんないが,収書のすべてが,すなわちパンフレツト類にいたるまで,イスパニア学界の誇りとする真摯な研究業績であり,報告書である。
昭和26年3月28日本文庫の開設を記念してイスパニア文庫開設記念会を開催した。駐日イスパニア国外交使節団カステヨ公使夫妻および同使節団アローンソー一等書記官夫妻を招待して,同国政府の好意と同国最高学術研究会議の学業に感謝と敬意を表した。また本館陳列室において本文庫を展示して,学内外の研究者の縦覧に供した。
清家文庫
清家文庫は清原夏野(782〜837)27世の孫少納言舟橋秀賢を家祖とする元子爵舟橋清賢氏の伝襲本である。
舟橋家は清原夏野以来,明経博士をもって経書を講じ,現当主の先代逐賢にいたるまで,その家学を継承した儒学の名家である。菅家とともにわが国儒学の双へきであった清原家は後に舟橋と改姓し,あるいは分家して伏原と称したが清原元輔以来,清少納言,頼業等その一門より学者,文人が続出し,学界に輝しい足跡を残している。特に宣賢,業忠,国賢等は碩学の誉高く,特に宣賢は室町時代の代表的経学者として知られている。
本文庫は舟橋家の遠祖より伝世された同家の日録,備忘録,系図等の記録書翰,秘伝,口宣案等の文書,または天皇に侍読の際に用いた進講本等の貴重な古文献の一大集成である。
舟橋家が明経道をもって朝廷に奉仕した清原家の嫡流であるため,本文庫は経書,特に宣賢を主軸とする室町時代の同家の磧学業忠,国賢等の儒学の著書を根幹としている。しかし宣賢筆の「新古今集注」,「年中行事」,「宣賢卿字書」等の国文,国史に関する和書も少なくない。
文書記録は室町期をさかのぼるものはなく,その成立は主として徳川期であるが,同家一門の有識者が子孫のために書残した儀式典礼の故実,考証に関する覚書類が多く,有識故実の典拠として最も信頼しうるものであろう。
なかんづく本文庫を有名にさせたものに「清原家家学34種」がある。この一群の稀覯書は昭和27年重要文化財に指定されている。その中「周礼疏」単疎本,「孝経述義」明応6年〔1492〕奥書,「中庸」弘安2年〔7382〕の筆写本3点は,いずれも戦前国宝に指定されていた天下の孤本である。特に「中庸」は長慶天皇の弘和2年(1382)僧禅恵によって,大和国宇智郡栄山寺行宮で書写された古鈔本である。それが朱子注であることと,弘和2年(1382)の奥書のあることで,後醍醐天皇以来の宋学の伝統と影響を窺うことができ,儒学史上の貴重な資料として学界より注目されている。また本書が栄山寺行宮に関する重要な歴史的史料であることも,看過することはできないであろう。
「清原家家学34種」には宣賢自筆の「尚書聴塵」,永正,大永,天文年間宣賢自筆の「大学」,清家累代の家訓として伝えられた延文元年(1356)10月教氏伝授の奥書のある「古文孝経」等,宣賢の進講本をはじめとして,訓点訓注が収められ,また清家一門の講説,あるいは書入れ等の南北朝より室町にいたる貴重な原本が集大成され,清家学の本質と伝統が燦然として,その光芒を放っている。
本文庫の特筆すべき独自性は,前述の如く宣賢,国賢等を中心とする清家一門の磧学の自筆本であるが,刊本にも慶長元和年間の,世に本能寺前町版と称する片仮名交りの木活字版「孟子抄」,「毛子抄」等,極めて稀少な珍籍も散見される。
清家文庫は舟橋清賢氏が昭和26年より3カ年にわたって寄贈した2,300余冊と,本館が同氏より購入した「清原家学書34種」等同家伝来の秘籍289冊の集成である。清家文献の収集においては,質量ともに本文庫の右に出るものはない。
なお昭和34年12月,本館創立60周年の記念事業の一つとして,本文庫中の重要文化財「孝子伝」1巻を影印複製して,専門学徒の机上におくった。
Rolls Series
Rolls Series は英国中世の公文書,記録類の集大成である。それは英国中世の法律,経済,文化等社会のあらゆる分野にわたる公式の文書記録であるとともに,ヨーロッパ諸国との外交上の諸資料を包含している。この点より見れば,この集書はむしろヨーロッパ中世史全般にわたる根本資料といえよう。
この種のものにはドイツの Monumenta Germaniae Historica 120巻,フランスの Collection de Douments inedits relatifs a l'histoire deFrance 300余巻があるが,Rolls Series はこれらとならび称されるものである。
この史料集が Rolls Series と称せられるのは,Master of the Rolls の監修の下に編纂されたからである。
b.重要文化財図書
本館が和漢洋の貴重書を多数架蔵していることは,しばしば前述したが,その貴重書群の中,とくに後世に永く伝承すべき図書として,文化財保護法(昭和26年 法律第214号)に基き文化財保護委員会が重要文化財に指定したものが,37種168冊の多量にのぼっている。これ以外にも貴重書中にはその価値において十分重要文化財級の稀覯書もあるが,いまはそれらにはふれず,上記の重要文化財図書の題名を掲げ,簡単な解説を試みるにとどめる。
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紙本墨書 万葉集 巻16 (尼崎本) 1帖 |
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縦8寸4分 横4寸7分 大和綴 紙数38枚(表紙共) 料紙鳥子紙 |
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両面に雲母を撤く 1面7行 朱書の校合及び訓点あり 平安末鎌倉初期筆写 |
本書の出所については岡山県倉敷の某家と伝えられるのみで,伝来の詳細は不明であるが,従来「尼崎切」と呼ばれているものと,用紙書式を同じくする故をもって,尼崎本万葉集と称せられたのである。しかし,従来の尼崎切は巻12の断片のみで,筆者を俊頼と伝えているが,本書は筆者を異にしている。
本書は巻16の零本であるが,この巻は仙覚本以外の系統の古写本が全く知られていないために,万葉集校勘上極めて意義深いものがある。昭和6年に発見されて本学の所蔵となり,学界に喧伝され,昭和7年11月貴重図書影本刊行会によって複製刊行された。奥書はなく,筆者,時代共に不明であるが,巻16の古写本としては最古のものである。書写年代は料紙および筆蹟から平安末期か,鎌倉初期頃までのものと推定されている。
本書は顕昭の古今集序および古今集注に引用されているのみで,永らく佚書と信じられていたが,大正2年発見されて本学の所蔵となり,吉沢義則博士によって学界に紹介され,貴重図書影本刊行会の影印によって,本書の複製を見るにいたった。
上帖に「治承元年九月十二日謁教長入道親受訓説訖仁治二年卯月二十六日写訖」の奥書がある。しかしこの仁治2年(1241)は本書が書写された時であり,またこの識語によって,本書が教長の自稿ではなく,原本に遅れること3度目の写本であることがわかる。
また下帖の「此造紙者安楽園御筆也而不被書終歟此本若自御室辺出歟有所持之仁者尋之可書継哉和歌浦末葉」(花押)とある奥書によって,本書が早くから零本であったことが推察されるが,安楽園が何人であるかは判明しない。随応は筆者を二条師忠(1254〜1341)と判定しているが確証はない。本書は異体仮名を交えた片仮名書で,藤原清輔の「奥儀抄」と共に,最も古い古今集の注釈である。歌学史,国語学史の研究にはもちろん,仮名沿革史の考究にも極めて有益な参考資料である。殊に本書が花園左大臣家の貫之自筆と伝えられる古今集を底本として校合せられたものであることは注目に値する。
藤原教長(生歿年不詳)は関白頼通の曾孫に当り,父は大納言忠教である。平安朝末期の著名な歌人であり,また歌学者としても有名である。崇徳天皇の寵を受け正三位参議に累進したが,保元の乱に禍されて,保元元年(1155)常陸国浮嶋に流され,二条天皇の応保2年(1166)都に召還されたが,その後高野山に隠棲して法名を親蓮と称しここでその数奇な生涯を閉じた。
上記2種の重要文化財図書は昭和17年6月26日文部省告示第519号をもって国宝に指定されていたが,昭和25年5月30日に制定された文化財保護法によって,国宝の分類より除かれ,同年8月29日重要文化財に指定された。
清原家家学書 34種
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紙本墨書 |
御注孝経残巻 |
紙背 建保5年,承久3年 文書等 巻子本 1巻 |
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紙本墨書 |
古文孝経 |
延文元年10月23日 教氏伝授奥書 巻子本 1巻 |
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紙本墨書 |
易学啓蒙抄 |
上下 宣賢筆 題簽 外題 宣賢筆 2冊 |
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紙本墨書 |
易学啓蒙通釈 |
上下 上巻 宣賢筆 朱墨点 2冊 |
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紙本墨書 |
易学啓蒙通釈口義 |
上ノ2 宣賢筆 朱訓点 1冊 |
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紙本墨書 |
命期秘伝 |
宣賢筆 1冊 |
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紙本墨書 |
尚書聴塵 |
宣賢筆 朱点朱鈎点 墨書頭注 5冊 |
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紙本墨書 |
毛詩 |
(清家証本)(宣賢本の写本) 第1冊 慶長2年 書写奥書 朱墨訓点 9冊 |
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紙本墨書 |
左伝聴塵 |
宣賢筆 巻第29,第30抄出 加点奥書 朱訓点 題簽 第4冊のみ 12冊 |
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紙本墨書 |
大学 |
宣賢筆 永正11年10月 書写並に大永天文年間講義奥書 朱書訓点 注双行 1冊 |
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紙本墨書 |
論語 |
良枝筆 天文19年4月 枝賢奥書 墨訓 2冊 |
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紙本墨書 |
論語 |
(清家証本)枝賢筆 第1冊 天正4年6月 枝賢 奥書 第2冊 天正8年2月 業賢奥書 外題 円珠経 朱訓点 墨訓 2冊 |
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紙本墨書 |
論語義疏 |
巻第2第4第5第6第7第8 朱 墨訓点 注双行 巻第8奥 清原良兼 朱花押 6冊 |
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紙本墨書 |
孝経抄 |
業賢筆 大永8年8月書写奥書 外題 題簽(枝賢筆) 朱訓点 墨訓 頭注 1冊 |
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紙本墨書 |
史記抄 |
1部宣賢,業賢筆 外題題簽(宣賢筆) 朱訓点20冊 |
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紙本墨書 |
漢書抄 |
1部宣賢,業賢筆 朱点墨訓 外題題簽(宣賢筆)(「漢書列伝」自8至15ヲ除ク) 6冊 |
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紙本墨書 |
標題補注蒙求 |
業賢筆 各冊 享禄,天文年間宣賢,業賢講義奥書朱訓点 墨訓 欄外頭注(宣賢加注) 3冊 |
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紙本墨書 |
六韜 |
業賢筆宣賢筆 外題題簽(宣賢筆) 朱墨訓点欄外頭注(宣賢加注) 1冊 |
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紙本墨書 |
六韜秘抄 |
宣賢筆 外題題簽(宣賢筆)朱訓点 墨訓 2冊 |
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紙本墨書 |
司馬法 |
宣賢筆 外題題簽(国賢筆) 朱点 墨訓 1冊 |
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紙本墨書 |
三略秘抄 |
宣賢筆 天文3年抄 同5年譜義 奥書 外題題簽(宣賢筆) 朱訓点 墨訓 欄外頭注 1冊 |
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紙本墨書 |
三略抄 |
第1冊 国賢筆 第2冊以下 助筆 天正4年13年奥書 外題題簽(国賢筆) 朱点 6冊 |
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紙本墨書 |
三略講義 |
自巻 31至巻33 内1部宣賢筆 朱訓点 1冊 |
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紙本墨書 |
孝子伝 |
枝賢筆 天正7年正月書写奥書 題簽(国賢筆)墨訓 1冊 |
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紙本墨書 |
長恨歌并琵琶行秘抄 |
宣賢筆 天文2年8月講義奥書 題簽(国賢筆) 朱訓点 1冊 |
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紙本墨書 |
拾芥抄 |
上中下 上巻 枝賢 国賢 宣賢筆 天正9年国賢奥書 中巻 業賢筆 永正7年書写奥書 下巻 国賢筆 3冊 |
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紙本墨書 |
年中行事 |
宣賢筆 宣賢加点 奥書 題簽(宣賢筆) 墨訓 朱書込 1冊 |
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紙本墨書 |
新古今注 |
宣賢筆 題簽 宣賢筆 朱句点 1冊 |
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紙本墨書 |
塵芥 |
宣賢筆 朱符号 2冊 |
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紙本墨書 |
聚分韻略(先到厳) |
宣賢筆 題簽(国賢筆) 朱符点 巻尾国賢朱符点 1冊 |
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紙本墨書 |
宣賢卿字書 |
宣賢筆 朱符点 1冊 |
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紙本墨書 |
中庸 |
朱熹章句 弘和2年栄山寺行宮ニ於テ隠士禅恵書写ノ奥書 朱点 朱訓 墨点 1冊 |
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紙本墨書 |
周礼疏 |
(単疏本) 外題 業賢筆 15冊 |
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紙本墨書 |
孝經述義 |
巻第1,2巻 1見返 明応6年ノ記 朱訓点 墨訓外題 業賢筆 2冊 |
清原家家学書34種については,すでに清家文庫の項において概説したから,ふたたびここで繰返すことを避けたい。
清原家家学の大成者である清原宣賢は,文明7年(1475)吉田(卜部)兼倶の第3子として京都に生まれ,明経博士宗賢の猶子となり,その学統を継承した。和漢の学に通じ,主水正,大炊頭を歴任して少納言侍従に進み,後柏原,後奈良両帝の侍読を拝した。天文年間越前一乗谷に招かれて,孟子,日本書記等を講じ,天文19年(1550)その地の朝倉氏の許で客死した。行年76才,法名は宗尤,号を環翠軒と称した。
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周礼疏単疏本
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清原家家学書34種の重要文化財の指定は昭和27年7月19日であるが,この中の「孝経述義(清家累代家訓)」「周礼疏単疏本」「中庸」の3種は共に旧国宝であり,また「周礼疏単疏本」を除く他の二書は,すでに昭和25年8月29日に重要文化財に指定されていたものである。
紙本墨書 兵範記
兵範記は兵部卿平信範の日記であり,人車記その他の異称がある。兵範記の称は官名と実名の各々1字を組合せたものであり,また人車記の称は信範の2字の各々の偏を連記したものである。日記は崇徳天皇の長承元年(1133)より高倉天皇の承安元年(1171)にいたる約40年間にわたる長期のものである。その間欠くところも少なくないが,平安末期の変転する情勢が遺憾なく活写されている。日記は朝政,朝儀に詳しく,仏事供養等の宗教的行事に関する記事も豊富である。特に保元の乱に関しては,もっとも信拠すべき資料を提供する唯一の根本資料である。日記は故紙に記されたものが多く,その裏文書には当時の名家の書状が多量に存在している。この時代の書状がこの様にまとまって伝存することは極めて珍らしく,この紙背文書も,また平安末期の世想をうかがうことのできる貴重な資料である。従来,伝来の兵範記はその多くは文字の欠落や誤字の多い転写本であるが,この自筆本の出現によって,これらの障害が除かれる等,兵範記が歴史研究者に寄与する史料的価値は極めて大きい。
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兵範記
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本書は大正3年元子爵平松家より購入以来,本書の貴重性に鑑み,その保管については,常に細心の注意を払ってきた。しかし本書は千年の風雪をへて伝世せられた古記録であるため,入手当初よりすでに若干の巻は虫害,鼠害,腐蝕等による甚しい破損があり,その他の巻も多少の被害のないものはなかった。特に損傷の著しいものは文字の摩滅,用紙の欠落によって,判読に堪えないものもあった。従来より歳月の経過と共に,その損傷が加速度的に増大することが憂慮されていたが,昭和31年,昭和32年の両年度にわたり,約80万円の経費を費して,新写本を含む全49巻の補修改装を完成した。また本書を収納する木製容器も同時に新調された。なお本書の重要文化財の指定は昭和31年6月28日である。