解体発蒙(かいたいはつもう)

 享和二年(1802)十二月に行われた解剖に参加した三谷公器が「平次郎臓図」や「施薬院解男体臓図」などを参考にしながらまとめた。公器は中国医学と西洋医学の融和を図ろうとしたが、西洋の解剖学はすでに中国医書に言及されていると考えた。本書は文化十年(1813)刊。

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